【途上にて】
体はズタボロです。腰にはコルセット、両膝にはサポーターを装着し、右前腕は蜂窩織炎になっています。
それでもまだ明後日から琵琶湖・湖南へ旅にでます。浮御堂、義仲寺…
ボロ雑巾のような体を引き摺って旅に出ることは、いかにも自虐的な私らしい行為です。
ただそうした自分自身に酔ってはいません。
湖南といえば、芭蕉の「野ざらし紀行」を思い出します。
野ざらしを心に風のしむ身かな 芭 蕉
はて、この句(発句)の季語は?
「凍む」なのか、内容から(秋〜冬を連想します)は無季でもいいような…
歳時記では「身に入む」(三秋)とあります。なるほど倒置させ「入む身」という訳です。それでも無季としてもよさそうな気がします。
はて、「しむ」は「しむる」ではないか?
古語辞典を見ますと、「しむ」は「自マ四」と「他マ下二」とあります。
ん…「心に風のしむ身」では「しむ」は他動詞のような気もしますが…ただ古語辞典でも「自マ四」と「他マ下二」の明確な使い分けをしていません。
ここは「自マ四」の連体形「しむ」でもよさそうです。
ここは目を瞑ってもよいかと思います。
荒海や佐渡によこたふ天河 芭 蕉
「奥の細道」の句です。
この「よこたふ」を文法的に誤っていると全国誌で指摘したプロがいます。
「よこたふ」は「自ハ下二」と「自ハ四」であり、この場合は明らかに「自ハ四」の連体形「よこたふ」でであり、古語辞典にも例として載っています。
ノン・プロの私でも、一見してこのプロの方が誤っていることに気付きました。
このプロはその後も訂正も謝罪もありませんでした。
プロとしての自覚が欠如しているとしか言いようがありません。
こうしたプロの大きなミスをノン・プロの私は許しません。
まぁ、熱くなっても仕方ありません…
何かの本で、作家の足跡を辿ろうとするのは日本人だけである、という内容を見たことがあります。
私は日本人ですが、故人の作家の足跡を辿ることに抵抗を感じます。
何故かと問われれば、文芸が宗教色を帯びてくる可能性が高くなる、と答えます。
芭蕉であれば、芭蕉を一個人として見るのではなく、「俳聖」とますます神格化してしまい、今に生きる我々はそれに囚われてしまう危険性を感じます。
今回の湖南の旅では、そうしたカラーを抜きにして一体一として臨みたいと思います。
さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝
0 件のコメント:
コメントを投稿