2013年11月4日月曜日

本日はお日柄もよく花粉症

岸本尚毅氏に、毎日新聞の『俳句月評』で「底流としての諧謔」として採りあげて戴いた拙句です。

実は吟行句会の前夜に作った句です。
実際には、当日の句会に提出しませんでした。

私は吟行句会が苦手です…正しく言うならば、即吟を好みません。
「俳句」は文芸としては決して長いものではないと思いますが、今や吟行句会も慣習化しています。

まず「その場限り」という、一過性のものになりがちということです。

次に、即吟が充分に練れていないという不全感を強く感じ、しばらくは頭の中がモヤモヤした状態が続きます。

そして吟行句会の「陥穽」を危惧することです。

初めて訪れる地には、その場所や建造物だけでなく、天候や風土などが混在し、多くの非言語的・言語的情報が存在します。

即吟となると、断片的な情報に焦点を当てることになります。

俳句の宿命かも知れませんが、俳句は寡黙な詩型です。

私が危惧していることは、即吟における非言語的なものを言語化する過程において、その一部の記憶が強く残り、そうした反復により思考パターンが硬直化する危険性です。

私が吟行句会や句会をどうしたか、ということに限定して話をします。

一つは、事前にネットなどで情報を仕入れ、句またはフレーズを作っておくこと。プロ達による吟行句会でも事前にフレーズを作っておくことはあるそうです。

二つ目は、あえて諧謔の句を作ることです。
自分のカラー?でなくても、エロ・グロでも気にしません。
意外にもこれがスラスラ作れますし、頭の体操にもなります。

ただ句会での評価を一切期待しない覚悟は必要です。
主宰をはじめ他者に依存したままで、アイデンティティーのない方には勧めません。

しかしこうして思いを巡らすうちに、晩年の芭蕉の唱えた「軽み」を連想するのは私だけでしょうか。

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