【『俳句』12月号より③】
〈作品12句『あやかり福』布施伊夜子〉
・日記書くころの眠たさ冬りんご
…アロマセラピーにも似て、就寝前の温かい室内に冬林檎の仄かに甘い香が充ちている情景が浮かびます。
〈作品12句『十二月』大竹多可志〉
(なし)
〈作品12句『光る湖』檜山哲彦〉
(なし)
〈作品12句『かりがね寒き』前田攝子〉
・蟋蟀や風に倒れし飼料米
…秋のもの悲しさを詠んでいます。
中七は「風」を略し、「倒れしままの」としてもよい気がします。
ディテールの効果の発現は、ケース・バイ・ケースです。
俳句という詩型においては、まず肉を削ぎ落として骨格のみとし、その後に再度肉付け(ディテールを含め)を行うほうが得策であることが少なくありません。
〈作品12句『乗り捨てて』佐藤郁良〉
・味見して舌を焼きたる時雨かな
…従来の「時雨」という季語の本情を外すことなく、違う側面を捉えています。どこか俳諧の匂いすら感じます。実力に裏打ちされた巧さが光っています。
少なくとも今の私には真似することすら出来ません。
・炬燵へと引き寄せてある受話器かな
…独身か、鰥夫のくらしぶりでしょうか。諧謔を感じます。ただコードレス時代の現代ではやや普遍性に乏しい気もします。
ある程度の「普遍性」も俳句の大事な要素の一つです。
・湯豆腐のゆらりどうでもいい話
…実力者が肩の力を抜いた時の適度な脱力が、何ともいえぬ飄逸感を醸し出しています。
掲句における作者は実年齢よりはるかに老け、好々爺にも似た存在となっています。どこか故・草間時彦氏を彷彿とさせます。
俳優にも似て、人生のあらゆるステージに立つということは、作句においては非常に有利です。ただ俳人の場合は作品で演じることになります。
私が俳人のビジュアル化・ファッション化に難色を示すのは、そうした理由によります。
・なつかざる目をして温き兎かな
…まず前半の「なつかざる目」は「兎」の本質に触れています。
兎はそれほど高等な知能は有していません。その知性は双眸にも現れます。
TVなどの画像や遠目に見る兎は可愛いと捉えますが、ペットとしてはその思慮の乏しさゆえに飼い主にも従順とは言えません。
そして後半に「温き」とあります。抱きしめたのでしょうか。「温さ」から「生命」を感じています。大仰かも知れませんが「生きとし生けるものへの愛」とも取れます。
直截な感情の言葉を用いることなしに、一句の中に複雑な感情を織り交ぜています。
見事です。
こうした複雑な感情を同時にもつのが人間であり、それゆえ文化・芸術は発展し、そして今われわれはその断片である俳句に携わっているのかも知れません。
〈第59回 角川俳句賞 受賞第一作21句『ただひとり』清水良郎〉
・みるみると籠に満ちたる蓬かな
…蓬の質感とともに色や香りが伝わります。五感の多くを働かせています。
・空つぽの風呂の深さや冬隣
…ここで難しいのは季語の選択です。晩秋から冬にかけどの季語を合わせるかがポイントとなります。
「冬隣」はどこか動揺性を感じますが、代用する他の季語が見つかりません。英断かも知れません。
掲句だけに限らず、特に季節の変わり目を詠むのは実は難しいものです。
・平行四辺形のケーブルカーや春の山
…着眼点は面白いと思います。「春の山」を従来と異なる側面で捉えています。
ただ上の字余り(上十)は調べ(音楽性)を損なっており、惜しいと感じました。
一般に言語(意味性)と調べ(音楽性)は車の両輪のような関係にあります。
もちろん音楽性を削いでも、強烈な意味性により成立している作品もあります。喩えるならば初期の自転車のような恰好となるでしょうか。非常に危うく、簡単に手を出すものではないと私は思います。
私自身の体験によりますが、上の字余りは八または九が限界ではないかと、感じます。それ以上の字余りも知っていますが、どうしても「調べ」に乗り切れず、韻文が散文に近くなってしまいます。
蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ 小澤 實
作者のような巧者のみ可能な技でしょう。今にも倒れそうにしている積木細工や、モダン・アートのような不安や不安定性を感じます。
凡人である私は、まず定型の安定性を重視したいと思う次第です。
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