【角川『俳句』7月号より⑤(終)】
〈角川俳句賞作家の四季 『大使館』広渡敬雄〉
・いつもより早き夕刊燕の巣
…下五のきごを「つばくらめ」や「燕の子」と替えてみると、朝昼の景には合いそうですが、夕方の景に合いません。ここは「燕の巣」とするとするのが良さそうです。
掲句では、親鳥や雀の子や巣の状態などのディテールを敢えて説明せず、夕方の景に委ねています。
一句のなかでディテールを説明するか、略すかのいう問題は、やはりケースバイケースと言わざるを得ません。
〈俳人スポットライト『虻忙し』森田純一郎〉
・満開にあらざるはなき牡丹かな
…牡丹の花弁が大きく開く時と、散る(崩れる)時です。牡丹は「満開」という状態が似つかわしくない花の一つです。
〈俳人スポットライト『伊達・春から夏へ』譽田文香〉
(なし)
〈俳人スポットライト『新樹』今野志津子〉
・こんにやくの句碑に玉巻く芭蕉かな
…「こんにやくの句碑」とは「こにやくのさしみも些(すこ)しうめの花 芭蕉」の句碑。
〈俳人スポットライト『おたおたと』石川日出子〉
・柩いっぱい花満ち忘れものないか
…無季・新かなが続いています。百合か菊か蘭などの花でしょう。
「忘れものないか」という疑問文の措辞は、故人に対してでもあり、本人自信に問うているようです。「忘れもの」のなかには「思い残すこと」という意味も含まれていることでしょう。
2013年6月29日土曜日
2013年6月28日金曜日
【角川『俳句』7月号より④】
〈今日の俳人 作品7句『祭の前』尾池葉子〉
・葉隠れの葵の花に身を折りて
…最初は「銭葵」かと思いました(「立葵」は論外)。これは「双葉葵」です。「加茂祭(葵祭)」という前提がなければ戸惑います。
句の前書きにも似ていますが、「題」や「前提」に凭れることなく、一句として独立して欲しいと思います。
〈今日の俳人 作品7句『壇之浦』原田暹〉
・この石も落人の墓かたつむり
…栄華を極めた平家も滅び、落人の墓も路傍の石と紛うかのようです。
そこに緩慢にして悠久の時を想像させる「かたつむり」を見事に配合しています。
「夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉」にも通じ、琵琶法師の平曲が聞こえてきそうです。
〈今日の俳人 作品7句『開演ベル』合谷美智子〉
・白靴や開演ベルに滑り込み
…明暗の対比です。ただ「白靴の(が)開演ベルに滑り込む」の方が妥当性であり、臨場感も表れる気がします。
〈今日の俳人 作品7句『夏に入る』成井侃〉
・夏に入る聳ゆるものはみな眩し
…個人的には「聳えたるものみな眩し今朝の夏(夏に入る)」という措辞を好みます。
〈今日の俳人 作品7句『夏富士』渡辺和弘〉
・夏富士の高きを越えし怒濤かな
…葛飾北斎の「富岳三十六景」や「あるときは船より高き卯波かな 鈴木真砂女」などが頭の中で優先している感がします。
〈今日の俳人 作品7句『白玉』山田径子〉
・セール品さらりと吊られ日の盛り
…「日盛」と「さらり」という清音のオノマトペの相性に疑問を感じます。
吊られている「セール品」は無造作に、店先で太陽光を直接浴びはいないでしょうか。
またチープなガラスの刺繍もあることでしょう。
例えば「セール品ざらりとしてや日の盛り」、「日盛やざらりとセールス品干され」「日盛やセールス品のざらつきて」など。
〈新鋭俳人20句競泳 『だらだら』矢口晃〉
・雷雲よなまあたたかき吊革よ
…科学的には難しい内容でははありません。
それでも文学的には、句中に(「切れ字」)「よ」を二回用いることにより、二句一章の形となり、「雷雲」と「吊革」の関係が不確かとなることに気付きます。
人間の脳の処理能力に挑戦しているかのようです。新鮮かつ面白いと思います。
・まくなぎも私を中心に回る
…「蠛蠓」=「めまとい」で、多くはヌカカです。俳諧味を感じます。
「世界は自分を中心に回る」という言葉がありますが、むしろ掲句は「世界は自分を中心に回っていないのだ」だという、悲観的、自虐的、そして諦念という内面が滲み出ているように感じます。
・黴だらけ借金だらけ夢だらけ
…青春性は感じますが、下五「夢だらけ」は悲しいですね。概して人間は、何かを得れば、何かを失うものです。それが俳句でなくとも、ささやかでも「夢」を持ち続けることがQOLに繋がります。「銀木犀文士貧しく坂に栖み 水沼三郎」
〈新鋭俳人20句競泳 『自己侵略』鎌田俊〉
・善人を騙り昼餉の冷奴
…「冷奴」をうまく使っています。掲句は「夕餉」は合いません。「善人を騙り」は社会人としての表面的な日常の自分の姿を、自己嫌悪や自虐的に捉えているのかも知れません。
〈今日の俳人 作品7句『祭の前』尾池葉子〉
・葉隠れの葵の花に身を折りて
…最初は「銭葵」かと思いました(「立葵」は論外)。これは「双葉葵」です。「加茂祭(葵祭)」という前提がなければ戸惑います。
句の前書きにも似ていますが、「題」や「前提」に凭れることなく、一句として独立して欲しいと思います。
〈今日の俳人 作品7句『壇之浦』原田暹〉
・この石も落人の墓かたつむり
…栄華を極めた平家も滅び、落人の墓も路傍の石と紛うかのようです。
そこに緩慢にして悠久の時を想像させる「かたつむり」を見事に配合しています。
「夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉」にも通じ、琵琶法師の平曲が聞こえてきそうです。
〈今日の俳人 作品7句『開演ベル』合谷美智子〉
・白靴や開演ベルに滑り込み
…明暗の対比です。ただ「白靴の(が)開演ベルに滑り込む」の方が妥当性であり、臨場感も表れる気がします。
〈今日の俳人 作品7句『夏に入る』成井侃〉
・夏に入る聳ゆるものはみな眩し
…個人的には「聳えたるものみな眩し今朝の夏(夏に入る)」という措辞を好みます。
〈今日の俳人 作品7句『夏富士』渡辺和弘〉
・夏富士の高きを越えし怒濤かな
…葛飾北斎の「富岳三十六景」や「あるときは船より高き卯波かな 鈴木真砂女」などが頭の中で優先している感がします。
〈今日の俳人 作品7句『白玉』山田径子〉
・セール品さらりと吊られ日の盛り
…「日盛」と「さらり」という清音のオノマトペの相性に疑問を感じます。
吊られている「セール品」は無造作に、店先で太陽光を直接浴びはいないでしょうか。
またチープなガラスの刺繍もあることでしょう。
例えば「セール品ざらりとしてや日の盛り」、「日盛やざらりとセールス品干され」「日盛やセールス品のざらつきて」など。
〈新鋭俳人20句競泳 『だらだら』矢口晃〉
・雷雲よなまあたたかき吊革よ
…科学的には難しい内容でははありません。
それでも文学的には、句中に(「切れ字」)「よ」を二回用いることにより、二句一章の形となり、「雷雲」と「吊革」の関係が不確かとなることに気付きます。
人間の脳の処理能力に挑戦しているかのようです。新鮮かつ面白いと思います。
・まくなぎも私を中心に回る
…「蠛蠓」=「めまとい」で、多くはヌカカです。俳諧味を感じます。
「世界は自分を中心に回る」という言葉がありますが、むしろ掲句は「世界は自分を中心に回っていないのだ」だという、悲観的、自虐的、そして諦念という内面が滲み出ているように感じます。
・黴だらけ借金だらけ夢だらけ
…青春性は感じますが、下五「夢だらけ」は悲しいですね。概して人間は、何かを得れば、何かを失うものです。それが俳句でなくとも、ささやかでも「夢」を持ち続けることがQOLに繋がります。「銀木犀文士貧しく坂に栖み 水沼三郎」
〈新鋭俳人20句競泳 『自己侵略』鎌田俊〉
・善人を騙り昼餉の冷奴
…「冷奴」をうまく使っています。掲句は「夕餉」は合いません。「善人を騙り」は社会人としての表面的な日常の自分の姿を、自己嫌悪や自虐的に捉えているのかも知れません。
2013年6月27日木曜日
【角川『俳句』7月号より③】
〈作品12句『塩飽屋』安部元気〉
・若布もむひとつかみづつ塩振つて
…景が見えます。作業の手順も分かります。
ただ他の表現の可能性もあるように思います。
例えば「ひとつかみづつ」を「束ごと」に、「振る」を「まぶす」とすれば、「束ごとに若布に塩をまぶし揉む」、「塩まぶし若布揉むなり(揉みたり)束ごとに」となり、風土性も匂うように感じます。
〈作品12句『赫々と』渡辺純枝〉
・根つめて煮る筍や甲斐の雨
…句意は分かります。ただ「根つめて煮る筍」はあまり美味しそうと感じません。とろ火ゆっくり煮る方が情緒がありそうです。
例えば、オノマトペ「くらくらと」を用い、「甲斐の雨」は「甲斐は(に)雨」「雨の甲斐」としてみると、「くらくらと筍煮るや甲斐は雨」、「筍(笋;たかんな)をくらくら煮るや甲斐は雨」となり、室内の暗さと筍の白さのコントラストも定かになるかと思います。
〈作品12句『ひと騒ぎ』野中亮介〉
・料峭や漬物石に母の意地
…句意は分かりますが、季語にやや動揺性を感じます。
〈作品12句『跳躍』西宮舞〉
・白き花多き六月嫁御寮
…確かに六月は白い花が目立ちます。単なるジューンブライドではなく、本家の「嫁迎え」のようです。下五の「嫁御寮」が効いています。言葉の選択が良く、俳諧味も感じられます。
〈作品12句『箱庭』上野一考〉
・包丁を研ぎ夏寒のけふ終(しま)ふ
…個人の体験として、夏でも刃物を研ぐ際にはうすら寒さを感じ、背中にひやりとした汗をかきます。手術で人体にメスを入れる時にも似て、呼吸も浅く静かです。
掲句にはそのような感覚を喚起されました。
〈日本の俳人 朝妻力〉
-新作7句-
(なし)(個人的に「美しい季語に美しい内容・措辞」という「美し過ぎる」俳句には抵抗を感じます)
-『息吹嶺』自選20句抄-
・大凶を引くこんな夜は根深汁
…俳諧味があり面白いと思います。「根深汁」から根の深い問題や闇の深さなどを連想させ、季語がよく合っています。
・あやふやな昼夜のあはひ河鹿鳴く
…河鹿は梅雨をはさんで夏の朝夕に鳴きます。梅雨明け前の夕べの景が浮かびます。
・書痴ひとり虫養ひの椎を炒る
…「椎」は「思惟」に通じるとする、伊藤伊那男氏の鑑賞に驚きました。
そう考えると面白いと思いますが、果たしてそこまで深読みすべきかどうかは分かりません。そもそも俳句は、他のものより読者に負担をかける文芸であると思うからです。
〈作品12句『塩飽屋』安部元気〉
・若布もむひとつかみづつ塩振つて
…景が見えます。作業の手順も分かります。
ただ他の表現の可能性もあるように思います。
例えば「ひとつかみづつ」を「束ごと」に、「振る」を「まぶす」とすれば、「束ごとに若布に塩をまぶし揉む」、「塩まぶし若布揉むなり(揉みたり)束ごとに」となり、風土性も匂うように感じます。
〈作品12句『赫々と』渡辺純枝〉
・根つめて煮る筍や甲斐の雨
…句意は分かります。ただ「根つめて煮る筍」はあまり美味しそうと感じません。とろ火ゆっくり煮る方が情緒がありそうです。
例えば、オノマトペ「くらくらと」を用い、「甲斐の雨」は「甲斐は(に)雨」「雨の甲斐」としてみると、「くらくらと筍煮るや甲斐は雨」、「筍(笋;たかんな)をくらくら煮るや甲斐は雨」となり、室内の暗さと筍の白さのコントラストも定かになるかと思います。
〈作品12句『ひと騒ぎ』野中亮介〉
・料峭や漬物石に母の意地
…句意は分かりますが、季語にやや動揺性を感じます。
〈作品12句『跳躍』西宮舞〉
・白き花多き六月嫁御寮
…確かに六月は白い花が目立ちます。単なるジューンブライドではなく、本家の「嫁迎え」のようです。下五の「嫁御寮」が効いています。言葉の選択が良く、俳諧味も感じられます。
〈作品12句『箱庭』上野一考〉
・包丁を研ぎ夏寒のけふ終(しま)ふ
…個人の体験として、夏でも刃物を研ぐ際にはうすら寒さを感じ、背中にひやりとした汗をかきます。手術で人体にメスを入れる時にも似て、呼吸も浅く静かです。
掲句にはそのような感覚を喚起されました。
〈日本の俳人 朝妻力〉
-新作7句-
(なし)(個人的に「美しい季語に美しい内容・措辞」という「美し過ぎる」俳句には抵抗を感じます)
-『息吹嶺』自選20句抄-
・大凶を引くこんな夜は根深汁
…俳諧味があり面白いと思います。「根深汁」から根の深い問題や闇の深さなどを連想させ、季語がよく合っています。
・あやふやな昼夜のあはひ河鹿鳴く
…河鹿は梅雨をはさんで夏の朝夕に鳴きます。梅雨明け前の夕べの景が浮かびます。
・書痴ひとり虫養ひの椎を炒る
…「椎」は「思惟」に通じるとする、伊藤伊那男氏の鑑賞に驚きました。
そう考えると面白いと思いますが、果たしてそこまで深読みすべきかどうかは分かりません。そもそも俳句は、他のものより読者に負担をかける文芸であると思うからです。
2013年6月26日水曜日
【角川『俳句』7月号より②】
〈俳人の時間 『横丁』小澤實〉
(なし)
〈作品 16句 『初鰹』大牧広 〉
・ていねいに焼けば目刺もよここびし
…確かに焦げた目刺はぞんざいな感じがします。個人的には、「擬人法」はリアリティーに欠けるきらいがあり、避けたいところです。
〈作品 16句 『この世』髙田正子 〉
・ひろびろと苗札ばかり立つところ
…「下萌」もさだかではない、黒褐色の土の上の「苗札」の白さが浮かびます。
やがては発芽が見られるでしょう。そこには季節を信じる心や祈りがあります。
そうは言っても、どこかでもどかしい気持もあるでしょう。
初春から仲春にかけての微妙な移ろいが滲みでています。
句作において「移ろい」を表現するのは難しいものです。
〈作品 8句 『知多・篠島』増成栗人〉
(なし)
〈作品 8句 『聖五月』松浦加古〉
(なし)
〈作品 8句 『白藤』雨宮きぬよ〉
・水に明け水に暮れたる残花かな
…やや淋しい景ですが、「春愁」や「暮の春」をも感じさせます。
あえて句中に季語を表記しなくても(無理な季重なりなど)、季節感は句中に滲み出てます。それは季語どうしに重なり合う部分があるからです。
もちろん、季語の本意・本情をよく理解しておくことが前提です。
〈作品 8句 『夏の日』鈴木太郎〉
(なし)
〈作品 8句 『風の十字路』古賀しぐれ〉
(なし
〈第47回蛇笏賞受賞第一作12句『光まぶしき』文挟夫佐恵〉
・青葉闇はや物の怪の潜みをり
…「物の怪」を否定的に捉えてはいない感じがします。いわゆるアニミズムでしょうか。
・わが挽歌たれ凌霄の花の揺れ
…「凌霄の花」は「夾竹桃」などと共に、戦争を喚起します。
戦争体験の色濃き作者にとっては、最後まで「戦争」の記憶とともに死を迎えたいという気持ちがあるのかも知れません。
蔓状の「凌霄」が揺れると、花弁どうしが擦れ合いかすかな音がします。
「挽歌」(音)と「凌霄の花の揺れ」(音)には無理がなく、しつこくもありません。
なかなか真似の出来ない巧さです。
〈私の宝物 新作5句『失はれゆくもの』加藤瑠璃子〉
(なし)
〈俳人の時間 『横丁』小澤實〉
(なし)
〈作品 16句 『初鰹』大牧広 〉
・ていねいに焼けば目刺もよここびし
…確かに焦げた目刺はぞんざいな感じがします。個人的には、「擬人法」はリアリティーに欠けるきらいがあり、避けたいところです。
〈作品 16句 『この世』髙田正子 〉
・ひろびろと苗札ばかり立つところ
…「下萌」もさだかではない、黒褐色の土の上の「苗札」の白さが浮かびます。
やがては発芽が見られるでしょう。そこには季節を信じる心や祈りがあります。
そうは言っても、どこかでもどかしい気持もあるでしょう。
初春から仲春にかけての微妙な移ろいが滲みでています。
句作において「移ろい」を表現するのは難しいものです。
〈作品 8句 『知多・篠島』増成栗人〉
(なし)
〈作品 8句 『聖五月』松浦加古〉
(なし)
〈作品 8句 『白藤』雨宮きぬよ〉
・水に明け水に暮れたる残花かな
…やや淋しい景ですが、「春愁」や「暮の春」をも感じさせます。
あえて句中に季語を表記しなくても(無理な季重なりなど)、季節感は句中に滲み出てます。それは季語どうしに重なり合う部分があるからです。
もちろん、季語の本意・本情をよく理解しておくことが前提です。
〈作品 8句 『夏の日』鈴木太郎〉
(なし)
〈作品 8句 『風の十字路』古賀しぐれ〉
(なし
〈第47回蛇笏賞受賞第一作12句『光まぶしき』文挟夫佐恵〉
・青葉闇はや物の怪の潜みをり
…「物の怪」を否定的に捉えてはいない感じがします。いわゆるアニミズムでしょうか。
・わが挽歌たれ凌霄の花の揺れ
…「凌霄の花」は「夾竹桃」などと共に、戦争を喚起します。
戦争体験の色濃き作者にとっては、最後まで「戦争」の記憶とともに死を迎えたいという気持ちがあるのかも知れません。
蔓状の「凌霄」が揺れると、花弁どうしが擦れ合いかすかな音がします。
「挽歌」(音)と「凌霄の花の揺れ」(音)には無理がなく、しつこくもありません。
なかなか真似の出来ない巧さです。
〈私の宝物 新作5句『失はれゆくもの』加藤瑠璃子〉
(なし)
2013年6月25日火曜日
【角川『俳句』7月号より①】
〈特別作品 50句『麦秋』大串章〉
・桑芽吹く山里に蚕屋見当たらず
…世の流れは早く、人の営みも泡沫の如し、という哀調の感がします。
・菜の花に囲まれ海女の墓小さし
…海女の墓は菜の花畑に埋れ、分け入らねば存在に気付かないかも知りません。
生前の海女の境遇が偲ばれます。菜の花はそうした海女への「救い」にも似た供花とも取れます。菜の花明りは、きらきらした海面の反射光に似ています。
・牛蛙夕闇重くなりにけり
…聴覚より夕闇の重さを認識しています。
和歌・連歌の頃より「蛙」は鳴き声を愛でるのが一般的です。「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉」は、賛否は別として、特殊な例です。
・麦こがし古きシネマの味のせり
…麦こがしの匂い(嗅覚)、ぱさぱさした食感(触覚)、味(味覚)、そして懐かしさはモノクロームの名作に良く合っています。
ただ麦こがし自体に古さを感じるので、中七の「古き」は不要かと思います。
〈特別作品 21句『麦秋』三村純也〉
・涅槃図に遠近法のありやなし
…涅槃図に遠近法はありません。「涅槃図」という季語の捉え方や、下五の「ありやなし」という措辞には、俳諧味が感じられます。
・左手ですることいくつ鳥雲に
…思わず指を折って数えてみましたが、どうも漠とした気持になります。その感情と「鳥雲に」の取り合わせが良く合っています。
〈特別作品 21句『ある限り』神野紗希〉
・マリッジブルー屋根から雪の落ちる音
…雰囲気は分かりますが、どのように雪の音がしたのかという説明は必要かと思います。
・どの名前呼んでも寄ってくる子猫
…読む人によって印象が変わるかも知れません。素直に子猫の姿に可愛さを感じる人と、子猫は人格の欠如した人間の隠喩であり畜生(界)を感じる人と。
(屈折している)私は後者と読みます。
多面性を計算しつつ作句しているなら、完全に脱帽ものです。
・咲きたてのポピーしわしわ風の中
…「しわしわ」にリアリティーがあります。ここを飾ると平板で空疎な句となってしまいます。
掲句における「しわしわ」は決してネガティブなものではありませんが、読者には「しわしわ=萎えている」という固定化されたイメージがあるため、余計に「驚き」が生まれます。
『光まみれの蜂』の「まみれ」と同じく、俳句では適度な「俗」が全体を立体化し、より輝かせるものです。
〈特別作品 50句『麦秋』大串章〉
・桑芽吹く山里に蚕屋見当たらず
…世の流れは早く、人の営みも泡沫の如し、という哀調の感がします。
・菜の花に囲まれ海女の墓小さし
…海女の墓は菜の花畑に埋れ、分け入らねば存在に気付かないかも知りません。
生前の海女の境遇が偲ばれます。菜の花はそうした海女への「救い」にも似た供花とも取れます。菜の花明りは、きらきらした海面の反射光に似ています。
・牛蛙夕闇重くなりにけり
…聴覚より夕闇の重さを認識しています。
和歌・連歌の頃より「蛙」は鳴き声を愛でるのが一般的です。「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉」は、賛否は別として、特殊な例です。
・麦こがし古きシネマの味のせり
…麦こがしの匂い(嗅覚)、ぱさぱさした食感(触覚)、味(味覚)、そして懐かしさはモノクロームの名作に良く合っています。
ただ麦こがし自体に古さを感じるので、中七の「古き」は不要かと思います。
〈特別作品 21句『麦秋』三村純也〉
・涅槃図に遠近法のありやなし
…涅槃図に遠近法はありません。「涅槃図」という季語の捉え方や、下五の「ありやなし」という措辞には、俳諧味が感じられます。
・左手ですることいくつ鳥雲に
…思わず指を折って数えてみましたが、どうも漠とした気持になります。その感情と「鳥雲に」の取り合わせが良く合っています。
〈特別作品 21句『ある限り』神野紗希〉
・マリッジブルー屋根から雪の落ちる音
…雰囲気は分かりますが、どのように雪の音がしたのかという説明は必要かと思います。
・どの名前呼んでも寄ってくる子猫
…読む人によって印象が変わるかも知れません。素直に子猫の姿に可愛さを感じる人と、子猫は人格の欠如した人間の隠喩であり畜生(界)を感じる人と。
(屈折している)私は後者と読みます。
多面性を計算しつつ作句しているなら、完全に脱帽ものです。
・咲きたてのポピーしわしわ風の中
…「しわしわ」にリアリティーがあります。ここを飾ると平板で空疎な句となってしまいます。
掲句における「しわしわ」は決してネガティブなものではありませんが、読者には「しわしわ=萎えている」という固定化されたイメージがあるため、余計に「驚き」が生まれます。
『光まみれの蜂』の「まみれ」と同じく、俳句では適度な「俗」が全体を立体化し、より輝かせるものです。
2013年6月24日月曜日
【小康—近詠5句】
ご迷惑をおかけしました。
4日間寝込んでいました。まだ全身倦怠感が強い状態です。
全く下らない近詠5句です。全く使えません。頭の切り替えにはなります。
最後の句は「純喫茶」と「スナック」の違いですが、お分かりでしょうか。答えは後ほど。
『「アミーゴ」と猛(たけし)』
純喫茶「アミーゴ」褥暑猛ゐて
「おやっさん」と叫(おら)ぶ猛や汗散らし
フェロモンか腋窩の汗か猛にほふ
革ジャンは猛の一部黴の花
似て非なる「アミーゴ」と「ゴン」虹淡し
大変失礼致しました。
純喫茶とスナックの違いは、アルコールの有無ではありません。
元来は純喫茶では「食事」を出していなかったそうです。それでもおつまみやサンドイッチなどの軽食はあったそうです。
純喫茶の方が酒の場だったようです。
これらの話は広島に来て、純喫茶(もはやなくなりましたが)の古参(失礼)のウェイトレスさんに聞いた話です。
昭和30年前後のメニューを見せて戴きましたが、コーヒー一杯が50円から60円に値上がりしていました。
「スナック」と言えば、現在は飲み屋を指すことが多いのですが、当時は食べる方が主であり、今の「喫茶店」に近いかと思います。
余談ですが、「キレンジャー」は純喫茶「アミーゴ」には縁がなく、スナック「ゴン」でカレーライスをたらふく食べていたことになります。
体調の管理に努めます。
ご迷惑をおかけしました。
4日間寝込んでいました。まだ全身倦怠感が強い状態です。
全く下らない近詠5句です。全く使えません。頭の切り替えにはなります。
最後の句は「純喫茶」と「スナック」の違いですが、お分かりでしょうか。答えは後ほど。
『「アミーゴ」と猛(たけし)』
純喫茶「アミーゴ」褥暑猛ゐて
「おやっさん」と叫(おら)ぶ猛や汗散らし
フェロモンか腋窩の汗か猛にほふ
革ジャンは猛の一部黴の花
似て非なる「アミーゴ」と「ゴン」虹淡し
大変失礼致しました。
純喫茶とスナックの違いは、アルコールの有無ではありません。
元来は純喫茶では「食事」を出していなかったそうです。それでもおつまみやサンドイッチなどの軽食はあったそうです。
純喫茶の方が酒の場だったようです。
これらの話は広島に来て、純喫茶(もはやなくなりましたが)の古参(失礼)のウェイトレスさんに聞いた話です。
昭和30年前後のメニューを見せて戴きましたが、コーヒー一杯が50円から60円に値上がりしていました。
「スナック」と言えば、現在は飲み屋を指すことが多いのですが、当時は食べる方が主であり、今の「喫茶店」に近いかと思います。
余談ですが、「キレンジャー」は純喫茶「アミーゴ」には縁がなく、スナック「ゴン」でカレーライスをたらふく食べていたことになります。
体調の管理に努めます。
2013年6月19日水曜日
【立ち止まる勇気】
荒梅雨です。
硝子戸を叩き付ける雨音を聞きながら惰眠を貪り、休日を過ごしました。
俳句を始めるにあたって、上達することが第一の目標です。
何も俳句に限らずどの芸術にもいえることです。
「上達する」とは、今の自分よりもう一段上の高みにおいて恒常性(ホメオスターシス)を維持することです。
上達するには努力を要しますが、問題はその「努力のしかた」です。
「努力のしかた」に個人差はあるでしょうが、合目的でない方法は勧められません。
出来るだけ効率の良い「努力のしかた」を選択していかねばなりません。
ひっきりなしに句会(所属結社以外の句会や仲間内でも)に参加する初学の方もおられますが、それだけで著しく上達した人を知りません。
名句を暗唱する、入門書、歳時記を読む、旧仮名・文語に慣れる、…これらを同時に行うことが求められます。特に歳時記は常に読む必要があります。
句会に参加すること自体は悪いことではありません。ただ本来の目標を見失うような方法では逆効果となる危険性があります。
強い「迷い」や「不安」を感じたら、時には「立ち止まる」勇気が必要です。
思い切って俳句から離れてみます。
離れてみると却って見えてくるものもあります。
自分と俳句や俳句界との関係などを俯瞰しつつ、俳句に踏み出した当初の思いなどに思いを馳せます。
しかしながらこれが出来ない方が少なくありません。
「迷い」や「不安」を掻き消すために、忙しそうに立ち回り、意識の外に追い出そうと必死の抵抗を試み、やがては己を正当化する殻を作ることで、恒常性(ホメオスターシス)を保とうとします。
こうした方の指導を受ける初学者は不幸です。
このことは一部の問題ではなく、俳句界全体に蔓延する「負の遺産・連鎖」と呼べる体質にも関係しているかと思います。
荒梅雨です。
硝子戸を叩き付ける雨音を聞きながら惰眠を貪り、休日を過ごしました。
俳句を始めるにあたって、上達することが第一の目標です。
何も俳句に限らずどの芸術にもいえることです。
「上達する」とは、今の自分よりもう一段上の高みにおいて恒常性(ホメオスターシス)を維持することです。
上達するには努力を要しますが、問題はその「努力のしかた」です。
「努力のしかた」に個人差はあるでしょうが、合目的でない方法は勧められません。
出来るだけ効率の良い「努力のしかた」を選択していかねばなりません。
ひっきりなしに句会(所属結社以外の句会や仲間内でも)に参加する初学の方もおられますが、それだけで著しく上達した人を知りません。
名句を暗唱する、入門書、歳時記を読む、旧仮名・文語に慣れる、…これらを同時に行うことが求められます。特に歳時記は常に読む必要があります。
句会に参加すること自体は悪いことではありません。ただ本来の目標を見失うような方法では逆効果となる危険性があります。
強い「迷い」や「不安」を感じたら、時には「立ち止まる」勇気が必要です。
思い切って俳句から離れてみます。
離れてみると却って見えてくるものもあります。
自分と俳句や俳句界との関係などを俯瞰しつつ、俳句に踏み出した当初の思いなどに思いを馳せます。
しかしながらこれが出来ない方が少なくありません。
「迷い」や「不安」を掻き消すために、忙しそうに立ち回り、意識の外に追い出そうと必死の抵抗を試み、やがては己を正当化する殻を作ることで、恒常性(ホメオスターシス)を保とうとします。
こうした方の指導を受ける初学者は不幸です。
このことは一部の問題ではなく、俳句界全体に蔓延する「負の遺産・連鎖」と呼べる体質にも関係しているかと思います。
2013年6月18日火曜日
【vacances】
ようやく梅雨らしくなってきました。その分、梅雨明けが遅くなるのも困りますが。
今はやや時間を持て余し気味ですので、「長期の旅」に出たいのですが、日本の社会はなかなか許してくれません。
ようやく退職後に(夫婦で)旅行することですら、昨今はままならない状況になりつつあります。
半強制的に「死ぬまで社会で働け」と言われているようなものです。
社会の「働きアリ」として生きても、社会からの恩恵は期待できません。
こうした社会構造の中で、「自由な時間」を得るには、病気等の理由により「社会から排除」されるか、「社会から逃亡」する等の方法しかありません。いずれにせよ経済的問題は付きまといます。
以前、職場を退職し、蓄えがなくなるまで旅に出ました。再就職は難儀しました。
「山頭火」の句集が売れる最も大きな要因は、自由への羨望と、非現実的な幻想を抱くこととに依ると思われます。
ようやく梅雨らしくなってきました。その分、梅雨明けが遅くなるのも困りますが。
今はやや時間を持て余し気味ですので、「長期の旅」に出たいのですが、日本の社会はなかなか許してくれません。
ようやく退職後に(夫婦で)旅行することですら、昨今はままならない状況になりつつあります。
半強制的に「死ぬまで社会で働け」と言われているようなものです。
社会の「働きアリ」として生きても、社会からの恩恵は期待できません。
こうした社会構造の中で、「自由な時間」を得るには、病気等の理由により「社会から排除」されるか、「社会から逃亡」する等の方法しかありません。いずれにせよ経済的問題は付きまといます。
以前、職場を退職し、蓄えがなくなるまで旅に出ました。再就職は難儀しました。
「山頭火」の句集が売れる最も大きな要因は、自由への羨望と、非現実的な幻想を抱くこととに依ると思われます。
実際に行うとしても、すぐに「不審者」として保護されますし、やがてはホームレス(路上生活者)とそう変わらない生活となるでしょう。そうなれば初めの高潔な目的は跡形もなく消え失せます。
さてヴァカンス(仏: vacances)をWikipediaで引いてみます。
主としてフランス人の長期休暇の過ごし方、もしくはそれを意識した長期休暇の呼称。
さてヴァカンス(仏: vacances)をWikipediaで引いてみます。
主としてフランス人の長期休暇の過ごし方、もしくはそれを意識した長期休暇の呼称。
英語ではバケーション」(英: vacation)に相当するが、フランスのスタイルが一つの典型となるため、フランス語呼称が用いられることが多い。
フランスの法律では、休暇は連続5週間まで取得可能となっている。そのため、企業経営者から学生にいたるまで夏季に連続1ヶ月ほどの休暇を取得する。日本で一般的な短期周遊型の休暇と異なり、数週間にわたる長期滞在型休暇を過ごす。
例えば、山中のコテージに家族で滞在し、ハイキングやパラグライダーなどスカイスポーツを楽しむ。あるいは民家を双方で融通しあい、田舎暮らしを楽しむ。また、海沿いのリゾート地に数週間滞在し、ひたすらマリンスポーツなどをして過ごす。
毎年バカンスの時期には、パリなど北フランスの住民が一斉に地中海沿岸へと移動するため、冗談めかして『民族大移動』と呼ばれたりする。
長期間に渡るため、時として「ロマンス」が生まれるなど、時として人生を変えるほどのインパクトを持つ。そのため、「フランス人は一年の大半を次のバカンスをどのように過ごそうか考えながら暮らしている」「フランス人はバカンスのために生きている」とすら言われる。
羨ましい話です。旅は若い時にするに限ります。
日本では元来「働くことは美徳」とされる慣習があります。
フランスの法律では、休暇は連続5週間まで取得可能となっている。そのため、企業経営者から学生にいたるまで夏季に連続1ヶ月ほどの休暇を取得する。日本で一般的な短期周遊型の休暇と異なり、数週間にわたる長期滞在型休暇を過ごす。
例えば、山中のコテージに家族で滞在し、ハイキングやパラグライダーなどスカイスポーツを楽しむ。あるいは民家を双方で融通しあい、田舎暮らしを楽しむ。また、海沿いのリゾート地に数週間滞在し、ひたすらマリンスポーツなどをして過ごす。
毎年バカンスの時期には、パリなど北フランスの住民が一斉に地中海沿岸へと移動するため、冗談めかして『民族大移動』と呼ばれたりする。
長期間に渡るため、時として「ロマンス」が生まれるなど、時として人生を変えるほどのインパクトを持つ。そのため、「フランス人は一年の大半を次のバカンスをどのように過ごそうか考えながら暮らしている」「フランス人はバカンスのために生きている」とすら言われる。
羨ましい話です。旅は若い時にするに限ります。
日本では元来「働くことは美徳」とされる慣習があります。
「過労死」や「うつ病(状態)の増加」などで、ようやく社会は対策を練り、国民感情も変わりつつあります。
しかし末梢に対する場当たり的な対応では根源的な問題は解決しません。またその目標設定もありません。
国益と私益とのバランスを含め、フレキシブルな社会構造への移行に直面しているのかも知れません。時間は掛かるでしょうが、リーダーがまず国民に明示する必要はあります。
私はその恩恵にあずかれないでしょうし、安心して社会に身を任すつもりもありません。
しかし末梢に対する場当たり的な対応では根源的な問題は解決しません。またその目標設定もありません。
国益と私益とのバランスを含め、フレキシブルな社会構造への移行に直面しているのかも知れません。時間は掛かるでしょうが、リーダーがまず国民に明示する必要はあります。
私はその恩恵にあずかれないでしょうし、安心して社会に身を任すつもりもありません。
2013年6月17日月曜日
【Blue Monday】
6月は憂鬱です。
梅雨最中にして、休日もありません。
まして月曜日はいっそう憂鬱です。
ブルーマンデー症候群です。
今では「サザエさん症候群」ともいう名称すら存在します。
母校である愛光学園高校は、進学校ながら、ドミニコ会(カトリックの一派)の施設でした。
敷地内にスペイン人?の神父(サッカーが上手い)はいましたが、生徒に敬虔なクリスチャンなどいません。
時に生徒たちは体育館に集められます。
ヨハネ・パウロ然とした、ドミニコ会の偉い方が来日され、説教?をなされます。
生徒はまるで聞いていません。ただ「最後の一言」を待ちながら、息を殺し堪え忍んでいます。
「アナタガタニ アンソクビ ヲ アタエマス」
弾けたように歓声が上がります。
この一言が生徒にとっての「救い」です。国の祝日以外の平日が休みとなる訳です。
「最後の一言」がなかった時の、生徒の反応は想像に難くないと思います。
神父らの悪行(カトリック全体に通じる問題)も含め、ドミニコ会を刺激・非難すると、怖ろしいことになりそうですので…「沈黙は金、雄弁は銀」
ドミニコ会の「愛」に包まれ、「か弱き羊」なる私は、諸悪に充ちたこの世を生きております。アーメン…
ところで本家は神道です。
『人形の遊び』1949 ハンス・ベルメール |
6月は憂鬱です。
梅雨最中にして、休日もありません。
まして月曜日はいっそう憂鬱です。
ブルーマンデー症候群です。
今では「サザエさん症候群」ともいう名称すら存在します。
母校である愛光学園高校は、進学校ながら、ドミニコ会(カトリックの一派)の施設でした。
敷地内にスペイン人?の神父(サッカーが上手い)はいましたが、生徒に敬虔なクリスチャンなどいません。
時に生徒たちは体育館に集められます。
ヨハネ・パウロ然とした、ドミニコ会の偉い方が来日され、説教?をなされます。
生徒はまるで聞いていません。ただ「最後の一言」を待ちながら、息を殺し堪え忍んでいます。
「アナタガタニ アンソクビ ヲ アタエマス」
弾けたように歓声が上がります。
この一言が生徒にとっての「救い」です。国の祝日以外の平日が休みとなる訳です。
「最後の一言」がなかった時の、生徒の反応は想像に難くないと思います。
神父らの悪行(カトリック全体に通じる問題)も含め、ドミニコ会を刺激・非難すると、怖ろしいことになりそうですので…「沈黙は金、雄弁は銀」
ドミニコ会の「愛」に包まれ、「か弱き羊」なる私は、諸悪に充ちたこの世を生きております。アーメン…
ところで本家は神道です。
2013年6月16日日曜日
【座の文芸】
拙句集『原型』を寄贈するにあたり、次のような用紙を入れて送りました。
拙句集『原型』を寄贈するにあたり、次のような用紙を入れて送りました。
『どの結社・協会にも属しておりませんゆえ序文、跋、栞など何も後ろ盾もない拙句集ではありますが、御一読下されば幸甚です』
返信の内容を見ますと、二点について意見が大きく二分されていました。
① 拙句集の体裁について
a. 「俳句」のみで臨む、句集の本来のあり方。新しい形。
b. 「序文」も「あとがき」もなく淋しい。
② どこにも所属していないことについて
a. (孤独だが)潔い選択。誰からも毒されずに済む選択か。
b. 俳句は「座の文芸」。
上記①②は大まかに、a-a、b-bと合致します。
今の俳句界でも、意見が統一されていないことが分かります。
上記①②は大まかに、a-a、b-bと合致します。
今の俳句界でも、意見が統一されていないことが分かります。
さて上記に「座の文芸」なる言葉が出て来ました。「座」…よく耳にする言葉です。
『現代俳句大事典』(三省堂)を引いてみます。
『座』…連歌や俳諧の会席が座で、それに参加することを一座するという。一座を構成する人々を連衆といい、連衆には共通の風雅を求めるという強い連帯感がある。俳諧は座によって生まれるから、とくに座の文芸という。(中略)座の文芸とは、もともと江戸時代の俳諧についていわれたことだが、近代の俳句も深くそこに根差していると考えられる。(中略)現代の俳句は、俳句会に座の働きがあり、俳句結社自体も一つの座と考えられる。結社に所属し、俳句会に出席すること、いわば俳句の座に参加することは、現代においても、俳句を作る上でも有効である。ただし、俳句における座の強力な吸引力が、作者の個性の伸展をさまたげるという点もないではない。座を重んじつつ、その中で個を確立することが、俳句作者としては必要であろう。(山下一海氏筆)
『俳句の宇宙』長谷川櫂(2011 花神社)、『俳句のはじまる場所―実力俳人への道』小澤 實(2007 角川学芸出版)を読みました。
頭の表層では分かる気もしますが、どこか腑に落ちない。上手くはぐらかさているような読後感を持ちました。
頭の表層では分かる気もしますが、どこか腑に落ちない。上手くはぐらかさているような読後感を持ちました。
「座」という言葉には、実体が確固としないまま、一部の人間にとっての都合のいい「ツール」や「呪縛」のように扱われている印象を拭いきれません。確かに集団をまとめる都合のいい「符牒」かも知れません。
しかし言葉は生き物である以上、実体の不確かなものは、やがて「死語」となり「消滅」することもあり得ます。
またそれに替わる「用語」が誕生してもよいか思います。
またそれに替わる「用語」が誕生してもよいか思います。
もちろん新しい「用語」は、実体(概念)がより確固としており、かつある程度の普遍性を有することが要求されます。
伝統を重んじること自体は悪いことではありません。しかし旧態依然としたまま硬直化した体質を改善する試みはあって然るべきと思います。
今のの俳句界(俳壇)に求められていることの一つは、過去と将来との(とりわけ将来に向けての)「橋渡し」ではないかと思う次第です。
伝統を重んじること自体は悪いことではありません。しかし旧態依然としたまま硬直化した体質を改善する試みはあって然るべきと思います。
今のの俳句界(俳壇)に求められていることの一つは、過去と将来との(とりわけ将来に向けての)「橋渡し」ではないかと思う次第です。
2013年6月15日土曜日
【残り5冊】
拙句集『原型』は300冊印刷しました(「ふらんす堂」に在庫として50冊)。
300冊のうち「ふらんす堂」から160冊を配送し、140冊が手元に残りました。
それも寄贈して、今や5冊となりました。「ふらんす堂」の在庫ももはや8冊程度です。
多くの俳人の方から御礼の手紙、封書、またはメールが連日届いています。
心より感謝する次第です。
予想以上に早く300冊がなくなり、これで寄贈を中止とするか、増刷するか悩んでいます。
著者としては、皆様の御意見(批判も含め)を受けることが喜びであり、反省材料も含め次の句作、句集へと繋ぎたいと考えています。
お返事がなくとも、団体や個人から周囲に渡り、たとえそれが帯の裏の「自選10句」のみであっても、広く読んで頂きたいと願います。
先日、ネットを見ていたら「ブックオフ」で拙句集(1.890円)が中古本(1.450円)として販売していました。
たとえ寄贈したものでも、もちろんあとの処理は受け取った方の自由です。
ただ著者としては、中古本として出品する前に、周囲に渡して欲しかったと思う次第です。
拙句集『原型』は300冊印刷しました(「ふらんす堂」に在庫として50冊)。
300冊のうち「ふらんす堂」から160冊を配送し、140冊が手元に残りました。
それも寄贈して、今や5冊となりました。「ふらんす堂」の在庫ももはや8冊程度です。
多くの俳人の方から御礼の手紙、封書、またはメールが連日届いています。
心より感謝する次第です。
予想以上に早く300冊がなくなり、これで寄贈を中止とするか、増刷するか悩んでいます。
著者としては、皆様の御意見(批判も含め)を受けることが喜びであり、反省材料も含め次の句作、句集へと繋ぎたいと考えています。
お返事がなくとも、団体や個人から周囲に渡り、たとえそれが帯の裏の「自選10句」のみであっても、広く読んで頂きたいと願います。
先日、ネットを見ていたら「ブックオフ」で拙句集(1.890円)が中古本(1.450円)として販売していました。
たとえ寄贈したものでも、もちろんあとの処理は受け取った方の自由です。
ただ著者としては、中古本として出品する前に、周囲に渡して欲しかったと思う次第です。
2013年6月14日金曜日
【定期検診】
一応は常勤医(正規雇用者)ですので、職場の定期検診を受けなければなりません。
職場からの伝達があるまで、定期検診のことを黙っていました。
例年通り(?)私への伝達が遅れ、ようやく検査をしている訳です。
聴診も胃カメラ(or 胃透視)もありません。身長・体重は自己申告(「去年と同じ」で済ます)です。
聴力・視力も自己申告で構いませんが、眼鏡のレンズを替えたこともあり、興味本位?で受けてみました。
40代に入って少しずつ「老眼」を自覚しはじめ、ついに昨年レンズを替えました。
「近視」・「乱視」・「老眼」の合併です。
眼鏡をかけたまま視力検査を行いましたが、何と両眼で0.3しかありません。昨年は0.7はありましたが…まぁ、自動車の運転はしませんが。
さらに今のレンズは眼精疲労が強く、長時間かけることが出来ません。
多くの時間は裸眼で過ごしています。頻回に目薬を点します。
デスクワークの際は、眼鏡をかけては、外すの連続です。PCやテレビは眼鏡を要します。
診察の時は変装の一部として、眼鏡とマスクを着用しています。
眼鏡は「それらしく見える」変装の道具でもあります。
マスクには無精髭を隠す目的?もあります。1週間のうち1度しか髭を剃りません。
いずれにせよ眼鏡のレンズは早めに替えた方が良さそうです。
コンタクトは、不精者の私には向きません。
レーシック手術は、「日本眼科学会」も厚労省も認めておらず、リスクもあり、さすがに受けようとは思いません。
眼精疲労→大脳の疲労→睡眠→活動時間の短縮という図式が成立します。
眼精疲労を治療しないと根本的な解決にはなりません。
一応は常勤医(正規雇用者)ですので、職場の定期検診を受けなければなりません。
職場からの伝達があるまで、定期検診のことを黙っていました。
例年通り(?)私への伝達が遅れ、ようやく検査をしている訳です。
聴診も胃カメラ(or 胃透視)もありません。身長・体重は自己申告(「去年と同じ」で済ます)です。
聴力・視力も自己申告で構いませんが、眼鏡のレンズを替えたこともあり、興味本位?で受けてみました。
40代に入って少しずつ「老眼」を自覚しはじめ、ついに昨年レンズを替えました。
「近視」・「乱視」・「老眼」の合併です。
眼鏡をかけたまま視力検査を行いましたが、何と両眼で0.3しかありません。昨年は0.7はありましたが…まぁ、自動車の運転はしませんが。
さらに今のレンズは眼精疲労が強く、長時間かけることが出来ません。
多くの時間は裸眼で過ごしています。頻回に目薬を点します。
デスクワークの際は、眼鏡をかけては、外すの連続です。PCやテレビは眼鏡を要します。
診察の時は変装の一部として、眼鏡とマスクを着用しています。
眼鏡は「それらしく見える」変装の道具でもあります。
マスクには無精髭を隠す目的?もあります。1週間のうち1度しか髭を剃りません。
いずれにせよ眼鏡のレンズは早めに替えた方が良さそうです。
コンタクトは、不精者の私には向きません。
レーシック手術は、「日本眼科学会」も厚労省も認めておらず、リスクもあり、さすがに受けようとは思いません。
眼精疲労→大脳の疲労→睡眠→活動時間の短縮という図式が成立します。
眼精疲労を治療しないと根本的な解決にはなりません。
2013年6月13日木曜日
【角川『俳句』6月号より⑧(終-終)】
読み忘れていた箇所がありました。追補します。
〈特別作品 21句『水行陸行』岩岡中正〉
・地の果てのやうな風吹く末黒かな
…旧かな・口語です。「やうな」は文語では「やうなる」となります。
野焼・山焼のあとの末黒野は、風景の一部と化していた植物が焼き払われ大地は一面真っ黒となります。その殺伐とした光景は焦土を連想します。
しかし一切が無に帰したわけではなく、その末黒野を肥料として新しい生命が誕生します。また病害虫も焼かれ、肥料の一部となっています。
個人的に「比喩」を好まないという理由もありますが、「地の果の風が吹きゐる末黒かな」でも良いかと思います。
拙句にて失礼。 末黒野やカルストの岩渇きゐて 山咲臥竜『原型』
・触るるとは祈ることなり初ざくら
…句意は分かります。「初ざくら」も活きています。
ただ上五・中七の叙法が気になります。特に「…なり」の「断定」です。
比喩を用いますが、「触るるとは祈りにも似て初ざくら」、「触れたるは祈りにも似て初ざくら」でも良いかと思います。
・かばかりの土に咲きたる菫かな
…菫の可憐さを引き立てています。うすむらさきの菫の吐息まで感じられます。
21句の中では最も良いと感じました。
〈特別作品 21句『しづかなご飯』鳥居真里子〉
・酸素足りてゐるのか月夜の田螺
…童話的ですが、不思議に安っぽさは感じがしません。「句またがり」が連続しますが、違和感を感じません。
(タ行)詩の一行のようです。もはや「俳句」というカテゴリーを超え、「詩」という上位に立脚しているようにさえ感じます。作者の稀有な個性に依るものです。
私は彼女の句を好みますが、さすがに真似をしようとは思ったことがありません。
・春菊の幽かな春を洗ひけり
…「摘まれた春菊はすでに春の植物として瀕死である」という前提があると思います。
摘まれた「春菊」は「春」を幽かに残しています。その「春」を洗い流すことで、「春菊」に「春からの完全なるの死別」を与えているようです。
このことは死者を送り出す作業にも似ています。また全体に「春愁」も感じられます。
・この冷えは桜のものぞふくらはぎ
…「ふくらはぎより花冷を感じる」という内容ですが、この措辞は真似できませんね。
「冷え」と「桜」を離したことにより、中七の「桜のものぞ」が活き、「桜」に焦点が合います。
「ふくらはぎ」を下五に据えていますが、難度の高い技としか言いようがありません。
・蛇穴をでて畳屋のやぶにらみ
…「畳屋」は藁や藺を材料に用いるからでしょうか。「やぶにらみ」は漢字で「薮睨み」です。全て蛇に関係しています。
(借金か何かのトラブルでしょうか)蛇の眼が乗り移ったかのように、「畳屋」の主人の睨め付ける姿が想像され、世俗の滑稽ともとれます。
・ゆつくりとまなこ仕舞へば亀鳴けり
…上五・中七「ゆつくりとまなこ仕舞へば」とは、視覚情報を遮断するということでしょう。視覚だけでなく五感全て(聴覚も入ると思います)を遮断し、無我の境地に至れば、「第六感」により「亀の鳴く声」が(聴覚ではなく)直接脳に伝わるかも知れません。
「亀鳴く」という季語を無理なく使っています。「亀鳴く」は非現実的なことです。
非現実-非現実の構造ではうまくいきません。
上五・中七の内容は現実的でもあり、また非現実的な部分もあります。
そのため「亀鳴く」との相性が良いと思います。
読み忘れていた箇所がありました。追補します。
〈特別作品 21句『水行陸行』岩岡中正〉
・地の果てのやうな風吹く末黒かな
…旧かな・口語です。「やうな」は文語では「やうなる」となります。
野焼・山焼のあとの末黒野は、風景の一部と化していた植物が焼き払われ大地は一面真っ黒となります。その殺伐とした光景は焦土を連想します。
しかし一切が無に帰したわけではなく、その末黒野を肥料として新しい生命が誕生します。また病害虫も焼かれ、肥料の一部となっています。
個人的に「比喩」を好まないという理由もありますが、「地の果の風が吹きゐる末黒かな」でも良いかと思います。
拙句にて失礼。 末黒野やカルストの岩渇きゐて 山咲臥竜『原型』
・触るるとは祈ることなり初ざくら
…句意は分かります。「初ざくら」も活きています。
ただ上五・中七の叙法が気になります。特に「…なり」の「断定」です。
比喩を用いますが、「触るるとは祈りにも似て初ざくら」、「触れたるは祈りにも似て初ざくら」でも良いかと思います。
・かばかりの土に咲きたる菫かな
…菫の可憐さを引き立てています。うすむらさきの菫の吐息まで感じられます。
21句の中では最も良いと感じました。
〈特別作品 21句『しづかなご飯』鳥居真里子〉
・酸素足りてゐるのか月夜の田螺
…童話的ですが、不思議に安っぽさは感じがしません。「句またがり」が連続しますが、違和感を感じません。
(タ行)詩の一行のようです。もはや「俳句」というカテゴリーを超え、「詩」という上位に立脚しているようにさえ感じます。作者の稀有な個性に依るものです。
私は彼女の句を好みますが、さすがに真似をしようとは思ったことがありません。
・春菊の幽かな春を洗ひけり
…「摘まれた春菊はすでに春の植物として瀕死である」という前提があると思います。
摘まれた「春菊」は「春」を幽かに残しています。その「春」を洗い流すことで、「春菊」に「春からの完全なるの死別」を与えているようです。
このことは死者を送り出す作業にも似ています。また全体に「春愁」も感じられます。
・この冷えは桜のものぞふくらはぎ
…「ふくらはぎより花冷を感じる」という内容ですが、この措辞は真似できませんね。
「冷え」と「桜」を離したことにより、中七の「桜のものぞ」が活き、「桜」に焦点が合います。
「ふくらはぎ」を下五に据えていますが、難度の高い技としか言いようがありません。
・蛇穴をでて畳屋のやぶにらみ
…「畳屋」は藁や藺を材料に用いるからでしょうか。「やぶにらみ」は漢字で「薮睨み」です。全て蛇に関係しています。
(借金か何かのトラブルでしょうか)蛇の眼が乗り移ったかのように、「畳屋」の主人の睨め付ける姿が想像され、世俗の滑稽ともとれます。
・ゆつくりとまなこ仕舞へば亀鳴けり
…上五・中七「ゆつくりとまなこ仕舞へば」とは、視覚情報を遮断するということでしょう。視覚だけでなく五感全て(聴覚も入ると思います)を遮断し、無我の境地に至れば、「第六感」により「亀の鳴く声」が(聴覚ではなく)直接脳に伝わるかも知れません。
「亀鳴く」という季語を無理なく使っています。「亀鳴く」は非現実的なことです。
非現実-非現実の構造ではうまくいきません。
上五・中七の内容は現実的でもあり、また非現実的な部分もあります。
そのため「亀鳴く」との相性が良いと思います。
2013年6月12日水曜日
【ベルメール人形】
15年以上前に初版本を持っていましたが紛失してしまい、ハンス・ベルメール の写真集を再度購入しました。
「骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書-ハンス・ベルメール」 (大型本);サラーヌ・アレクサンドリア(箸)、澁澤龍彦 (翻訳) (河出書房新社、初版1974年、新版2006年)
ハンス・ベルメール(Hans Bellmer, 1902年3月13日 - 1975年2月23日)-ドイツ出身の画家、グラフィックデザイナー、写真家、人形作家。
アンドレ・ブルトンら当時のパリのシュルレアリストに受け入れられる。
1934年、少女の関節人形の白黒写真10枚を収めた『人形』(Die Puppe)をドイツで自費出版する。
日本においては、1965年に雑誌『新婦人』で澁澤龍彦がベルメールの「球体関節人形」を紹介し、広く知られるようになる。
現代ではメーク技術の向上やコンピューター・グラフィックスにより「ゾンビ」をはじめ「グロテスク」なものは作れます。しかしそれらから受けるイメージを自らの内界(精神世界)に向けることは出来ません。
澁澤龍彦は「球体関節人形」と訳しましたが、「違和感のある球体の配列」であり、かつそれが「人形(もしくは人間)」に見えるため、現実と非現実の間の感覚を誘発され、それはやがてメッセージ性を帯びてきます。
「ベルメール人形」はデフォルメされた外観を提示しつつ、見る者に精神世界に潜む「エロティシズムの原型」、「猥雑さ」、そして「混沌」までも感じさせます。
その奥底には、妖しいまでの甘美な匂いさえ漂っているかのようです。
ベルメールはまず外界へ「作品」を提示し、鑑賞する人間を精神世界へ誘っています。
また「人形」をそのまま「作品」として展示するのではなく、「写真」などのフィルターを通して「作品」としている創意も見逃せません。
15年以上前に初版本を持っていましたが紛失してしまい、ハンス・ベルメール の写真集を再度購入しました。
「骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書-ハンス・ベルメール」 (大型本);サラーヌ・アレクサンドリア(箸)、澁澤龍彦 (翻訳) (河出書房新社、初版1974年、新版2006年)
ハンス・ベルメール(Hans Bellmer, 1902年3月13日 - 1975年2月23日)-ドイツ出身の画家、グラフィックデザイナー、写真家、人形作家。
アンドレ・ブルトンら当時のパリのシュルレアリストに受け入れられる。
1934年、少女の関節人形の白黒写真10枚を収めた『人形』(Die Puppe)をドイツで自費出版する。
日本においては、1965年に雑誌『新婦人』で澁澤龍彦がベルメールの「球体関節人形」を紹介し、広く知られるようになる。
現代ではメーク技術の向上やコンピューター・グラフィックスにより「ゾンビ」をはじめ「グロテスク」なものは作れます。しかしそれらから受けるイメージを自らの内界(精神世界)に向けることは出来ません。
澁澤龍彦は「球体関節人形」と訳しましたが、「違和感のある球体の配列」であり、かつそれが「人形(もしくは人間)」に見えるため、現実と非現実の間の感覚を誘発され、それはやがてメッセージ性を帯びてきます。
「ベルメール人形」はデフォルメされた外観を提示しつつ、見る者に精神世界に潜む「エロティシズムの原型」、「猥雑さ」、そして「混沌」までも感じさせます。
その奥底には、妖しいまでの甘美な匂いさえ漂っているかのようです。
ベルメールはまず外界へ「作品」を提示し、鑑賞する人間を精神世界へ誘っています。
また「人形」をそのまま「作品」として展示するのではなく、「写真」などのフィルターを通して「作品」としている創意も見逃せません。
2013年6月11日火曜日
【読書録-6月・貧乏?】
〈読書録〉
『64』横山秀夫(文藝春秋)をようやく読み終えました。
安部首相が外遊を終え、飛行機のタラップを降りる時に、片手に持ってアピールしていた本です(安部氏と横山秀夫氏は友人関係)。
今回は普段以上に読書が進みませんでした。元々ミステリーは苦手なのですが、興味が湧かず、更に遅遅たる読書となりました。
ストーリー展開は、全体の2/3まではローペースで、ラスト1/3でドタバタと急展開し、そしてエンディングでは着地が腑に落ちません。
地方警察内の刑事部と警務部の対立、キャリアとノンキャリアの確執など、そもそも警察という組織が内包している問題に、肉付けしたようなストーリーかと感じました。
こうしたことは警察に限らずどの社会の組織にも言えることです。
私はあまり好きではありませんが、「ミステリー」は人口に膾炙しています。
ところで「ミステリー」(散文)と「俳句」の一般公募の賞金を挙げてみます。
例えば「松本清張賞」は500万円です。さらにその後、殺人的に原稿依頼が殺到し、巨額の報酬を得ることになります。
俳句の場合、「西東三鬼賞」は一句で50万円です(角川俳句賞は50句で30万円)。俳句の公募では確かに破格です。もちろんその後に原稿の依頼は来ますが、しかし富にはほど遠いものです。
それは取りも直さず、読者層の厚みの違いに繋がります。
俳句はマイノリティーの文芸であることを改めて個々が自覚すべきかも知れません。
さて気分を取り直して、『きみはいい子』中脇初枝(ポプラ社)に移行します。
その前に読みかけの『ローマ人の物語』(新潮文庫)を切りの良いところまで読み進めます。私は不器用ですので、複数の書物を同時に読めません。
それとは別に『知識ゼロからの西洋絵画入門』山田五郎(幻冬舎)を少しずつ読み進めています。
〈貧乏〉
・銀木犀文士貧しき坂に棲み 水沼三郎
この句はよく分かります。「銀木犀」の選択が効果的です。
・貧乏に匂ひありけり立葵 小澤 實
この句は未だによく分かりません。
「立葵」は一見「離れ過ぎ」のように感じますが、おそらくこれで良いのでしょう。
ただ初学者に共感を得るのは困難と思います。
「武士は食わねど高楊枝」といった、やせ我慢をしつつも気位を高く持つということでしょうか。
・夕空に匂ひありけり花木槿 山咲臥竜
「西東三鬼賞」の佳作です。
小澤氏の句を意識したつもりはありませんが、結果的に構造が似ています。
中七「匂ひありけり」は全く同じです。
〇〇〇〇に匂ひありけり〇〇〇〇〇(植物・体言止め)
小澤氏の句を意識することはなかったのですが、現実(結果)として17文字のうち8文字が同じであり構造も似ています。
「盗作」と言われても仕方ありませんし、潔白を証明する術はありません。
〈読書録〉
安部首相が外遊を終え、飛行機のタラップを降りる時に、片手に持ってアピールしていた本です(安部氏と横山秀夫氏は友人関係)。
今回は普段以上に読書が進みませんでした。元々ミステリーは苦手なのですが、興味が湧かず、更に遅遅たる読書となりました。
ストーリー展開は、全体の2/3まではローペースで、ラスト1/3でドタバタと急展開し、そしてエンディングでは着地が腑に落ちません。
地方警察内の刑事部と警務部の対立、キャリアとノンキャリアの確執など、そもそも警察という組織が内包している問題に、肉付けしたようなストーリーかと感じました。
こうしたことは警察に限らずどの社会の組織にも言えることです。
私はあまり好きではありませんが、「ミステリー」は人口に膾炙しています。
ところで「ミステリー」(散文)と「俳句」の一般公募の賞金を挙げてみます。
例えば「松本清張賞」は500万円です。さらにその後、殺人的に原稿依頼が殺到し、巨額の報酬を得ることになります。
俳句の場合、「西東三鬼賞」は一句で50万円です(角川俳句賞は50句で30万円)。俳句の公募では確かに破格です。もちろんその後に原稿の依頼は来ますが、しかし富にはほど遠いものです。
それは取りも直さず、読者層の厚みの違いに繋がります。
俳句はマイノリティーの文芸であることを改めて個々が自覚すべきかも知れません。
さて気分を取り直して、『きみはいい子』中脇初枝(ポプラ社)に移行します。
その前に読みかけの『ローマ人の物語』(新潮文庫)を切りの良いところまで読み進めます。私は不器用ですので、複数の書物を同時に読めません。
それとは別に『知識ゼロからの西洋絵画入門』山田五郎(幻冬舎)を少しずつ読み進めています。
〈貧乏〉
・銀木犀文士貧しき坂に棲み 水沼三郎
この句はよく分かります。「銀木犀」の選択が効果的です。
・貧乏に匂ひありけり立葵 小澤 實
この句は未だによく分かりません。
「立葵」は一見「離れ過ぎ」のように感じますが、おそらくこれで良いのでしょう。
ただ初学者に共感を得るのは困難と思います。
「武士は食わねど高楊枝」といった、やせ我慢をしつつも気位を高く持つということでしょうか。
・夕空に匂ひありけり花木槿 山咲臥竜
「西東三鬼賞」の佳作です。
小澤氏の句を意識したつもりはありませんが、結果的に構造が似ています。
中七「匂ひありけり」は全く同じです。
〇〇〇〇に匂ひありけり〇〇〇〇〇(植物・体言止め)
小澤氏の句を意識することはなかったのですが、現実(結果)として17文字のうち8文字が同じであり構造も似ています。
「盗作」と言われても仕方ありませんし、潔白を証明する術はありません。
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