【角川『俳句』6月号より⑧(終-終)】
読み忘れていた箇所がありました。追補します。
〈特別作品 21句『水行陸行』岩岡中正〉
・地の果てのやうな風吹く末黒かな
…旧かな・口語です。「やうな」は文語では「やうなる」となります。
野焼・山焼のあとの末黒野は、風景の一部と化していた植物が焼き払われ大地は一面真っ黒となります。その殺伐とした光景は焦土を連想します。
しかし一切が無に帰したわけではなく、その末黒野を肥料として新しい生命が誕生します。また病害虫も焼かれ、肥料の一部となっています。
個人的に「比喩」を好まないという理由もありますが、「地の果の風が吹きゐる末黒かな」でも良いかと思います。
拙句にて失礼。 末黒野やカルストの岩渇きゐて 山咲臥竜『原型』
・触るるとは祈ることなり初ざくら
…句意は分かります。「初ざくら」も活きています。
ただ上五・中七の叙法が気になります。特に「…なり」の「断定」です。
比喩を用いますが、「触るるとは祈りにも似て初ざくら」、「触れたるは祈りにも似て初ざくら」でも良いかと思います。
・かばかりの土に咲きたる菫かな
…菫の可憐さを引き立てています。うすむらさきの菫の吐息まで感じられます。
21句の中では最も良いと感じました。
〈特別作品 21句『しづかなご飯』鳥居真里子〉
・酸素足りてゐるのか月夜の田螺
…童話的ですが、不思議に安っぽさは感じがしません。「句またがり」が連続しますが、違和感を感じません。
(タ行)詩の一行のようです。もはや「俳句」というカテゴリーを超え、「詩」という上位に立脚しているようにさえ感じます。作者の稀有な個性に依るものです。
私は彼女の句を好みますが、さすがに真似をしようとは思ったことがありません。
・春菊の幽かな春を洗ひけり
…「摘まれた春菊はすでに春の植物として瀕死である」という前提があると思います。
摘まれた「春菊」は「春」を幽かに残しています。その「春」を洗い流すことで、「春菊」に「春からの完全なるの死別」を与えているようです。
このことは死者を送り出す作業にも似ています。また全体に「春愁」も感じられます。
・この冷えは桜のものぞふくらはぎ
…「ふくらはぎより花冷を感じる」という内容ですが、この措辞は真似できませんね。
「冷え」と「桜」を離したことにより、中七の「桜のものぞ」が活き、「桜」に焦点が合います。
「ふくらはぎ」を下五に据えていますが、難度の高い技としか言いようがありません。
・蛇穴をでて畳屋のやぶにらみ
…「畳屋」は藁や藺を材料に用いるからでしょうか。「やぶにらみ」は漢字で「薮睨み」です。全て蛇に関係しています。
(借金か何かのトラブルでしょうか)蛇の眼が乗り移ったかのように、「畳屋」の主人の睨め付ける姿が想像され、世俗の滑稽ともとれます。
・ゆつくりとまなこ仕舞へば亀鳴けり
…上五・中七「ゆつくりとまなこ仕舞へば」とは、視覚情報を遮断するということでしょう。視覚だけでなく五感全て(聴覚も入ると思います)を遮断し、無我の境地に至れば、「第六感」により「亀の鳴く声」が(聴覚ではなく)直接脳に伝わるかも知れません。
「亀鳴く」という季語を無理なく使っています。「亀鳴く」は非現実的なことです。
非現実-非現実の構造ではうまくいきません。
上五・中七の内容は現実的でもあり、また非現実的な部分もあります。
そのため「亀鳴く」との相性が良いと思います。
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