拙句集『原型』を寄贈するにあたり、次のような用紙を入れて送りました。
『どの結社・協会にも属しておりませんゆえ序文、跋、栞など何も後ろ盾もない拙句集ではありますが、御一読下されば幸甚です』
返信の内容を見ますと、二点について意見が大きく二分されていました。
① 拙句集の体裁について
a. 「俳句」のみで臨む、句集の本来のあり方。新しい形。
b. 「序文」も「あとがき」もなく淋しい。
② どこにも所属していないことについて
a. (孤独だが)潔い選択。誰からも毒されずに済む選択か。
b. 俳句は「座の文芸」。
上記①②は大まかに、a-a、b-bと合致します。
今の俳句界でも、意見が統一されていないことが分かります。
上記①②は大まかに、a-a、b-bと合致します。
今の俳句界でも、意見が統一されていないことが分かります。
さて上記に「座の文芸」なる言葉が出て来ました。「座」…よく耳にする言葉です。
『現代俳句大事典』(三省堂)を引いてみます。
『座』…連歌や俳諧の会席が座で、それに参加することを一座するという。一座を構成する人々を連衆といい、連衆には共通の風雅を求めるという強い連帯感がある。俳諧は座によって生まれるから、とくに座の文芸という。(中略)座の文芸とは、もともと江戸時代の俳諧についていわれたことだが、近代の俳句も深くそこに根差していると考えられる。(中略)現代の俳句は、俳句会に座の働きがあり、俳句結社自体も一つの座と考えられる。結社に所属し、俳句会に出席すること、いわば俳句の座に参加することは、現代においても、俳句を作る上でも有効である。ただし、俳句における座の強力な吸引力が、作者の個性の伸展をさまたげるという点もないではない。座を重んじつつ、その中で個を確立することが、俳句作者としては必要であろう。(山下一海氏筆)
『俳句の宇宙』長谷川櫂(2011 花神社)、『俳句のはじまる場所―実力俳人への道』小澤 實(2007 角川学芸出版)を読みました。
頭の表層では分かる気もしますが、どこか腑に落ちない。上手くはぐらかさているような読後感を持ちました。
頭の表層では分かる気もしますが、どこか腑に落ちない。上手くはぐらかさているような読後感を持ちました。
「座」という言葉には、実体が確固としないまま、一部の人間にとっての都合のいい「ツール」や「呪縛」のように扱われている印象を拭いきれません。確かに集団をまとめる都合のいい「符牒」かも知れません。
しかし言葉は生き物である以上、実体の不確かなものは、やがて「死語」となり「消滅」することもあり得ます。
またそれに替わる「用語」が誕生してもよいか思います。
またそれに替わる「用語」が誕生してもよいか思います。
もちろん新しい「用語」は、実体(概念)がより確固としており、かつある程度の普遍性を有することが要求されます。
伝統を重んじること自体は悪いことではありません。しかし旧態依然としたまま硬直化した体質を改善する試みはあって然るべきと思います。
今のの俳句界(俳壇)に求められていることの一つは、過去と将来との(とりわけ将来に向けての)「橋渡し」ではないかと思う次第です。
伝統を重んじること自体は悪いことではありません。しかし旧態依然としたまま硬直化した体質を改善する試みはあって然るべきと思います。
今のの俳句界(俳壇)に求められていることの一つは、過去と将来との(とりわけ将来に向けての)「橋渡し」ではないかと思う次第です。
0 件のコメント:
コメントを投稿