感冒の症状が増悪しています。やはり辛いですね。
次のような句を想起します。
・「大和」よりヨモツヒラサカスミラサク 川崎展宏 (春)
・頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋 (夏)
・鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪 村 (秋)
・大寒の埃の如く人死ぬる 高浜虚子 (冬)
さすがにここまで達観した句は想起しません。
・旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭 蕉
さて例句を挙げ文語に関する話をします。
・争はぬ種族ほろびぬ大枯野 田中裕明
上五「争はぬ」と中七の「ほろびぬ」の末尾は共に「ぬ」ですが、異なるものです。
上五「争はぬ」は、打ち消しの助動詞「ず」の連体形の「ぬ」です。「争ふ」の未然形「あらそ・は」に接続しています。
中七の「ほろびぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形の「ぬ」です。「ほろぶ」の連用形「ほろ・び」に接続しています。
つまり口語で言えば、「争はない種族はほろびてしまった」ということです。
インディアンやアイヌ民族、さらには植民地や古代文明をも連想します。
文語を避ける初学者(特に高齢者)がいます。
俳句の表現には大きく分けて、新かな・旧かな(歴史的かな遣い)と口語・文語であり、それの組み合わせにより、四通りの表現方法があります。
それでも大半は「旧かな・文語」の表現をとります。
俳句という短詩型では「日常」から「非日常」に移るにあたり、非常に有効な表現手段からです。また「句の切れ(特に句の前後の切れ)にも関わりますが、それは後日にしたいと思います。
俳句の定型17音に比べ短歌は31音ですから、散文に近くなり口語表現も比較的敷居が低くなります。
俳句に新かなや口語を用いている作品がありますが、その作者らに既は旧かな・文語に精通しています。初学者の弁明にはなりません。
文語を怠ると必ず行き詰まり伸び悩みます。結局は時間と労力の浪費となります。
まさしく「学問に王道なし」です。古語辞典に慣れる他ありません。
広辞苑には文語も載っていますが必ずしも一致しません。やはり古語辞典で調べて下さい。
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