2013年1月24日木曜日

九州の山奥に住んでいる私の母もインフルエンザでダウンしています。私はわずかながら復調の兆しはあります。皆様も気を付けて下さい。

割烹や小料理点等で、一般の人から「俳句と川柳はどう違うの?」と尋ねられることがあります。

広辞苑で「川柳」を引くと
「前句付(まえくづけ)から独立した17文字の短詩。江戸中期、明和(1764〜1772)ごろから隆盛。発句とは違って、切れ字・季節などの制約がない。多く口語を用い、人情・風俗、人生の弱点・世俗の欠陥等をうがち、簡潔・滑稽・機知・諷刺・奇警が特色。江戸末期のものは低俗に堕し、狂句と呼ばれた。」
とあります。

・行水の捨て所なき虫の声               鬼 貫

川柳では
鬼貫は夜中を持ち歩き」
と冷やかしています。川柳は江戸の大衆文化として発展していきます。

上記のことを一般の人に短時間に話しても理解は得られません。
俳句に限ったことではありませんが、最小限の時間で最大公約数の明示を求められることがあります。まず大きく分かり易く外観から提示します。

個人的に私は次のように話しています。
「俳句と川柳に厳密な線引きはない。川柳は滑稽を主体として時事を詠むことが多いが、それ故に普遍性にも乏しい。俳句は四季を詠み、ある程度の普遍性を持つ」
そして普遍性については例えば「政治の諷刺」「パソコン用語」、また「流行語」等の例を挙げます。

川柳は今でも「サラリーマン川柳」(サラ川)のに見られるよう盛んです。

狂歌(五・七・五・七・七)、狂句(五・七・五)はやがて衰退していきました。
ただ「肥後狂句」等、地域に根ざしている例もあります。

結局のところ現在の我々がよく知る詩型は、五・七・五と五・七・五・七・七に集約されています。

都々逸(七・七・七・五)は主に古典落語の枕として残存している程度と言っても過言ではないでしょう。

主に落語等で耳にする都々逸は
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」
でしょうか。

牡丹の方が芍薬より背が高く、おかしという意見もあります。以前は私も同様でした。
しかし「芍薬」と「牡丹」を入れ替えると、調子(リズム)に乱れが生じます。
事実はそうかもしれないが、元より戯れ歌めいた座興であり、細かいことは気にせず、調子を整えることの方が大事なのかも知れません。

リズムの重要性は俳句でも同じです。中七を容易には動かせないことに通じます。

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