2013年2月28日木曜日

【角川「俳句」3月号より②】

〈特別作品21句 「復活」 筑紫盤井〉

・胡桃割る女はこはし一途なる

・老人の遠きまなざし怖ろしき

一句目…「胡桃」はの陰嚢、睾丸の隠喩かと思います。
「阿部定事件」にも通じる「女の情念の深さと執拗さ」を感じます。
特に下五の「一途なる」は説得力があります。
「こはし」と他人事のようにいなしていますが、それなりに自分の股間に注意が向いている作者の姿が浮かぶようです。

二句目…「老人」のまなざしはは現実の景でも「あの世」に向けられたものではないと思います。茫漠とした弱々しいまなざしでしょう。
間もなく「高齢者の部類」に入る作者は、その「老人」(親かも知れません)に、自分の今後を投影し「怖ろしき」と言っているようです。

気になったのは「僕たちのファンがあつまり雷と鳴」という句の下五です。
「雷鳴」や「雷響」でもなく「雷と鳴」と分けています。
「雷(夏)」は主に「音」を重きを置いています。春の雷・冬の雷もそうです。「迅雷」となれば青白い光も反映します。

一方「稲妻(秋)」は主に「光」を重きを置いています。代表的な言葉が「稲光」です。
確かに雷でも稲妻でも、先に光り、数秒後に音が来ます。

「雷と鳴」という措辞には「雷」は光を持たせているのかも知れません。

余談です。「アリス」の代表曲「冬の稲妻」や、ジャニーズ(近藤真彦氏?)の歌のサビに「冬の稲妻」とありますが、厳密に言えば疑問が残ります。
また元プロレスラーの故・木村健悟氏の必殺技「稲妻レッグ・ラリアート」は、「秋」限定でも良かったかも知れません。

〈特別作品21 「深藍」井上弘美〉

・ひと網の蛸のうごめく雪の上

網による蛸漁を知りませんが、おそらく数匹のやや小ぶりの蛸でしょう。
蛸が雪の上をうごめく景が浮かんで来ます。「腕(触椀)」を使えない状況です。
雪の白色と蛸の茶褐色の対比。蛸の茶褐色はそこだけ「雪解」した土のようです。しかもうごめいている。
また蛸の頭も腕もその吸盤も雪により、縮こまっている景も見えます。

蛸にとっては災難ですが、その蛸を薄切りにし軽く茹で、上質の濃口醤油か西京味噌をベースにした酢味噌でその甘さと歯ごたえを堪能したいと思うのは私だけでしょうか。
シャンパン(スプマンテ)か、やや辛口の白ワイン(リースリングか比較的若いシャルドネ)が相性が良さそうです。

2013年2月27日水曜日

【カバーデザイン・帯】

拙句集は校正(初校ゲラ)も終り、出版社に渡しました。
私の手元を離れ、もはや訂正は出来ません。

句集名は「原型」です。
英語ではa model, a prototype, an archetype,  a mold, a cast 等と区分されていますが、
広義に「元となるもの」と捉えています。

将来消費税が10%になることを前提に、出版社に依頼し、定価を1.800円としました。
消費税が10%となっても、定価+税=1.980円となります。
2.000円でお釣がくるということを第一義としました。

電子書籍にもしていますが、こちらは出版社のHPから閲覧(有料)出来ます。

寄贈・謹呈先は全国格都道府県立の図書館を含め150箇所以上です。リストを出版社に渡しました。出版社から一括配送されます。
残りは私の手元に残りますが、あとは個人で一つずつ配送するしかありません。

残るはカバーデザインと帯という「外観」になりました。
さすがに自分で作るには時間と労力がかかりますので、イメージを伝え、出版社のデザイナーに依頼しています。

デザインの表は「瑪瑙の勾玉」とし、裏は「龍の印」とする予定です。

帯の裏は(自選)十句にしました。

帯の表上段には、まず初句を載せました。

〈壺焼の腸勾玉の原型か〉

肴の壺焼の腸(わた)を見ていて、ふと思いついた句です。
栄螺(生)でも良さそうな気もしましたが、やはり「栄螺の腸」より「壺焼の腸」の方が勾玉の質感に近いと感じました。

下段には、5/7/5/7/7となる韻文を載せました。

〈人の為す「もの」に「原型」ありぬべし 人の「心のはたらき」もまた〉

人が作り出すものには、おそらく何かの原型があるのだろう。
一個人の知情意も、おそらく体験や記憶や何らかの原型に基づくものだろう。

「原点回帰という命題」を己にも読者にも提示したつもりです。

とりあえずご一読下さい。良くも悪くも、今の私の「身の丈」相応の句集かと思います。
その上で「つまらない」と感じれば、遠慮なく破棄されて構いません。

それも今の私の「身の丈」と真摯に受け止めるつもりです。

2013年2月26日火曜日

【泣くということ】

人間の持つ心的要素を表す「知情意」という言葉があります。知性と感情と意志です。
もちろんこれらは相互に補完しあっています。

「情(感情)」の話から。

大脳には主に感情を司る扁桃体という部位があります。怒り・憎しみ・恨みといった「負の感情」の源とも言えます。
それを抑制するのは主に海馬と前頭野です。

扁桃体と海馬は大脳辺縁系の一部です。大脳辺縁系は旧皮質と呼ばれます。
前頭野は新皮質と呼ばれます。
大脳は新皮質が旧皮質を包む構造をしており、新皮質は旧皮質に主に抑制をかける機能があります。

ネコは扁桃体が発達し、抑制系があまり機能しません。つまり「好き・嫌い」が明白な動物の一例です。
人の場合、前頭野が強く大脳辺縁系に抑制をかけます。

ところで人の感情を表す言葉に「七情」という言葉があります。
仏家では「喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲」です。

ただ「感情」を抑制する際に、記憶と共に「負の感情」を意識下に止めます。防衛機制の一つです。

しかしながら本人はそのことを自覚(意識)するのが困難であることも事実です。
意識に上れば、「理性(知性)」を上回り「感情」に振り回される危険性があります。
逆に押し殺し続ければ、人格の歪みや破綻を引き起こしかねません。

大脳辺縁系と前頭野の風通しが良いのが理想的ですが、なかなかそうはいきません。またむしろそれが「人間らしさ」なのかも知れません。

ただ自覚(意識)されにくいからこそ、旧皮質にこびりついた「負の感情」を適度に解消する必要があります。

その一つが「泣くこと」です。泣くことでカタルシス(浄化)は促されます。

「なく」にも「泣く・鳴く・啼く」とありますが、ここでは単に「泣く」とします。
また悲嘆して泣く、悔しさに泣く等の事象は別にします。
特に自覚していなくても、「自発的に自分を誘導して泣く」ことに限ります。

よく幼児が駄駄をこねて泣きますが、やがては眠りに落ちます。
ここには原始的ながらカタルシスが生じています。身体的な疲れもありますが、「泣く」により欲求不満の解消を起こしているからです。
生命に危機的な状況であれば、衰弱するまで泣き続けます。

「時々風通しを良くすること」…私自身の体験も含めて話します。

何も大勢の前で泣く必要はありません。一人の場所を確保し一人で泣けばいいのです。
そこにトリガー(引き金)を要することもありますが、本や映画や音楽でも身近なものでいいでしょう。

私は漫画でも昔の安っぽいドラマでも泣きます。ただ泣いた次の日は、胸のつかえがとれたようにすっきりとした気分になります。

人はそれ程強くありません。大脳辺縁系の容量も限度があり、前頭野の抑制にも限度があります。精神論を否定はしませんが、お勧めできません。

すっきりした脳で生きることは、QOL(生活の質)にも深く関わります。

俳句に関して言えば、冷静に句を読み・詠むことにも繋がります。
私の体験では、感情に任せて作った句の殆ど全ては、客観的評価は得られませんでした。
常に自分の中に「(客観的な)第三者の自分」の居場所が確保できる、心の余裕が欲しいものです。

2013年2月25日月曜日

【角川「俳句」3月号 特別作品50句「寒の華 高野ムツオ」より】

① 揺れてこそ此の世の大地去年今年

② 死者二万餅は焼かれて膨れ出す

③ 寒木の影海に向き海の色

④ 大寒の陽が缶詰の鯨より

⑤ 山どれも秘奧を蔵し雪の川

⑥ 冬林檎刃を入れし時軋む

⑦ 星雲は宇宙のとぐろ春を待つ

⑧ 冬眠のままの死もあり漣す

⑨ 白魚のまなこ無数が陸奥の国

まず俳句は時事を詠むには適さない詩型であると私は認識しています。
それでも心を動かされる句は評価しています。
  
①…確かに次の災害は起こるでしょう。生きとし生きる者としての「悟り」にも似た諦念か、生命への賛歌か、その両方に取れます。

②…餅が膨れ上がり破裂する寸前の危機感を感じます。

③…静まり返った海岸と鈍色の海が見えてきます。

④…鯨の缶詰から光明を見出しつつ、現実には大寒の陽がないことを示唆しています。

⑤…日本は山岳信仰ですが、雪山となればその奥処に対するの秘匿性が高まります。「雪の川」とは「雪解川」とは異なるものです。

⑥…「冬林檎」は被災者や被災地の隠喩であり、その無機質な音が聞こえてきそうです。

⑦…人間は危機的状況に陥った時、真理や大局観を求めることが少なくありません。それらは一時的にせよ希望なのです。それらを信じつつ「春を待つ」のです。

⑧…「冬眠のままの死」とは死者や被災者の隠喩です。さざなみは魂の救済にして、静かに、哀しいまでに美しいレクイエムを奏でているかのようです。

⑨…句中の「切れ」が分かりにくいのですが、「/白魚のまなこ無数が/陸奥の国/」と読みたいと思います。「無数の白魚のまなこ」は死者の隠喩です。

2013年2月24日日曜日

【短冊②】

おそらく私にとって最初で最後の「師」となるだろう、著名な俳人より昨年の一月に戴いた短冊です。

訳あって遂に訣別してしまいましたが、その話はまた別の機会したいと思います。
ただ憎しみによるものではないと、私は思っています。

短冊の名前を修正ようかと思いましたが、敢えてこのまま掲示することにしました。

「鹿島槍無垢白雪のぶあつしよ」

鹿島槍とは鹿島槍ヶ岳のことです。

句中の「無垢」がどこに付くかにより、読み方が変わります。

/鹿島槍無垢/白雪のぶあつしよ/

「無垢」の白雪では月並みです。

散文に直すと、「(鹿島)槍ヶ岳の山容は無垢なまでだ。その偉容を讃える白雪のぶあつきことだ」ということになります。

形式上、二句一章の「一物仕立て」です。

下五は「ぶあつし」と形容詞の終止形となっています。一見「ぶあつさ」と名詞にしても良さそうですが、「無垢」の負担が大きく、また何度も読み返してみると、やはりここは形容詞の方が一句のバランスが取れているように思えます。

なかなか難しい句だと思います。

いつしか「師」と笑いながら酒盃を交わす日が来ることを祈る次第です。

2013年2月23日土曜日

【感謝・1000回】

本年一月一日より始めたこのブログの閲覧数が1000回を超えました。

論語に「徳孤ならず必ず隣あり」という言葉があります。徳のある者は孤立することがない。必ず共鳴する人が現れるものである、という意味です。

果たして私に「徳」があるのかどうか分かりません。

しかしながら、この結果はひとえに皆様のおかげであり、心より感謝する次第です。

振り返ってみますと、たがだか五十数日間でありながら、毎日ブログを更新することは容易ではありませんでした。それでも皆様のお力添えに依り、続けることが出来ました。

今後もブログをけいぞk所存ですが、俳句の話だけなく、日常のことや、いわゆる「ブレイク・タイム」といったややラフな内容も織り込むつもりです。

また拙句集が上梓されましたら、時々は拙句も紹介させて頂きます。

俳句に限らず、文芸、ひいては芸術は「骨法」を身に付けることが肝要です。
「骨法」は基礎であり、それが身に付いていれば既に初学の域は越えてると言えます。

「骨法」の習得は時間(俳句歴)と比例しません。悪いクセをつけたまま長く俳句をされている方の修正は難しいものです。

いかに初学の域を早く脱するかということがポイントです。
最も重要なことは
① 確かな「アイデンティティー」を持つこと
② 出来るだけ良いものや人に巡り会うこと
に尽きます。②に関しては確かに運命もあります。しかし①の心構えがあれば自ずと良い方向を見いだすことが出来る筈です。

この拙いブログがその一助となれば幸いです。
【拙句集について】

拙句集の校正が終わりました。

帯の内容は自分で作りました。裏は(自選)十句です。

あとは主にカバー・デザインです。表のデザインは「瑪瑙の勾玉」にします。

電子図書にもします。

初回分の寄贈は出版社から配送されます。全国47都道府県立の図書館も含め、さしあたり150冊ほどです。

寄贈・謹呈にあたっては、当然ながら角川「俳句年鑑」の巻末の「全国俳人住所録」を見ています。
但しこれも本人の希望によるものですので、掲載されていない場合等もあります。
本人の意志を無視し掲載することがあれば、「個人情報保護法」に抵触します。

ですから然るべき方の住所がない場合も少なくありません。その場合、Twitterで相互フォローの方からDMを戴き住所を知るより他はありません。

寄贈のお礼やご意見等は、出版社か(出版社と話はついており、出版社から私のもとに郵送されます)、拙句集巻末の「著者紹介」に掲載しているE-mailアドレスをご利用頂ければ幸いです。

拙句集は4月に上梓されますが、実質的に取りかかったのは昨年12月からです。もちろんそれ以前から構想はありました。
出版社に初回の原稿を送ったのが今年の1月上旬です。
少なくとも取りかかりから上梓まで約5ヶ月はかかる訳です。

構成上一番悩んだことでもありますが、200句ということには、あるこだわりがありました。
句集としての最低限の体裁は保ちつつも、俳句に携わっていない一般の方や初学者にも何とか読める分量にしたいという思いがありました。
そのため少なくとも半分は削りました。

寄贈は別にして、定価は出版社にお願いし、1.800円に抑えました。
購入する際は「定価+税」となりますが、今後消費税が10%に上がったとしても、計1.980円と2.000円以内で購入可能としたかったのです。

それでも「定価なし」にはしたくありませんでした。そうすれば「読まない」可能性が高くなります。
多少の「痛み」は必要であり、「痛み」は間接的にでも「読む」ことに繋がると考えたからです。

拙句集を大事にして欲しいという訳ではありません。読み終えて「つまらない」と思えば、捨てられても構いません。

ただ特に一般の方や初学者に対し、とにかく一通りは読んで欲しいというささやかな希望があるのみです。

2013年2月22日金曜日

「取り合わせの変型」について

おもしろさ急には見へぬすすきかな          鬼 貫

やはりこの句の「おもしろさ急には見へぬ」は「すすき」の説明であり、「一物仕立て」と思います。
語調を変えれば、「すすきとは急には見へぬおもしろさ(あり)」と散文に近くなり、その内容は「芒の風情はすぐには分からない(しばらくすると感じられる)」ということになります。

「一物仕立て」とは、散文に近いものを「切れ」や調べにより韻文として成立している要素が大きいものです。

・遠山に日の当たりたる枯野かな            高浜虚子

この句は「取り合わせの変型」です。
初学の頃、この句が理解出来ませんでした。日が当たっているのが何処なのか分かりませんでした。

・さまざまのこと事おもひ出す桜かな          芭 蕉

この句も「取り合わせの変型」です。

それぞれに「切れ」を入れてみると

/遠山に日の当たりたる/枯野かな/
/さまざまのこと事おもひ出す/桜かな/

となります。句の前後の「切れ」の説明は既にしました。
ここで問題となるのは句中の「切れ」です。
連体形になっていますが、これらの句中には小さな「切れ」が存在します。見落としやすい「切れ」です。

大まかに言うと、「12拍(内容)(語尾は連体形)+〇〇〇かな」という形であり、
特に「〇〇〇」に季語が入る場合には読む上において注意を要します。

下五とは別に12拍(内容)が独立しているか(していなければ「一物仕立て」)が一番のポイントになります。
しかし分かりにくいものもありますし、両方に取れる場合もあります。
両方に取れる場合は、より良い方を選ぶというのが一般的です。

しかし悩ましいですね…とりあえず読む上においては、「〇〇〇(季語)かな」という構造の句はやや注意し、取り合わせの変型ではないかと疑うことが大事であり、読む力をつけることにも繋がるかと思います。

追記です。「俳句は十七文字の文芸」とよく言われますが、少なくとも私は「十七文字」でも「十七音」でもなく、「十七拍」と呼ぶことにしています。

2013年2月21日木曜日

追記;「かな」の句は「一物仕立て」か、「取り合わせの変型」か?

・いきながら一つに冰(こお)る海鼠哉

・さまざまのこと事おもひ出す桜かな          芭 蕉

どちらも芭蕉の句です。両方とも「かな」で終わっています。

結果を先に言えば、一句目は「一物仕立て」、二句目は「取り合わせの変型」です。

一句目「いきながら一つに冰る」は「海鼠」の説明です。いきながら一つに冰る」だけでは内容としては独立していません。

二句目「さまざまのこと事おもひ出す」は「桜」を説明していません。さまざまのこと事おもひ出す」だけで独立しています。

時にそれでも「一物仕立て」とも「取り合わせの変型」とも取れる句があります。
その場合は、全体の内容を考えてより良い方を選ぶ方がよいとされています。

それでは昨日の句はどうでしょうか。

おもしろさ急には見へぬすすきかな          鬼 貫

「おもしろさ急には見へぬ」は「すすき」の説明のようでもあり、
また内容も独立しているように見えます。

つまりどちらにも取れそうな句と言えます。悩ましいとことです。

要点は「すすき」が「おもしろさ急には見へぬ」にかかる、「取り合わせの変型」が優位か否かということです。

あくまでも個人的な意見で、間違っているかも知れません。
ただ全体の内容を見れば、「一物仕立て」の方がやや優位のような気がします。

また個人的な話になりますが、句作において「取り合わせの変型」は用います。
ただどちらにも取れるような句作は避けるようにしています。

それでなくとも17拍の俳句は、他の文芸に比べ読者に負担をかけるものです。
上記の話を俳句に携わっていない一般の人に通じる筈はありません。

読者は「通好み」の俳人ばかりではありません。できるだけ一般人にも「何となくいい…」と感じてもらうことも大事なことかと思います。

技巧がうまいことと、俳句がうまいこと、は必ずしも一致しません。

俳人は、特に他人の句を読む際に、上記のこ知識が必要となります。

ただ句作においては、より分かり易い、よりストレートな方法(叙法)はないか等、念頭に置くことも同じように重要なことかと思います。

2013年2月20日水曜日

「卑怯(者)」・鬼貫

・「卑怯(者)」

私の知人にも「ネットの俳句など意味がない」と頭ごなしに否定する人がいます。

私とて最初はネットの横書きの俳句には抵抗がありました。
それでもしばらくするうちに、横書きでも縦書きと大差なく読めるようになりました。
いつしか意識せずとも頭の中で、横書きが縦書きに変換されるようになったのかも知れません。

しかしその知人は、横書きの句を書いたこともなければ、ネットも出来ず、更にはパソコンすら扱えません。
僅かな体験もない彼に、己とは「異質」なものを根底から否定する資格はありません。

俳句に限らずどの世界でも、「卑怯(者)」と言われても仕方ありません。

・鬼貫

右の短冊は、柿衛文庫「鬼貫賞」の副賞として昨年頂いた短冊です。

おもしろさ急には見へぬすすきかな 鬼貫」

上島鬼貫直筆(レプリカ)ですが、達筆すぎて「おもしろさ」の後はなかなか読めません。

上島鬼貫は「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われています。

ところでこの句は「一物仕立て」でしょうか、それとも「取り合わせの変型」でしょうか。どちらとも取れそうです。
両方に取れる句は少なくありません。その場合、ベターな方を選ぶのが原則です。
自信はありませんが、個人的にこの句は素直に「一物仕立て」として読んだ方が良いような気がします。

「取り合わせの変型」は「体言または連体形+かな」の形が多く、読む時には注意が必要です。

・さまざまのこと事おもひ出す桜かな        芭 蕉
・遠山に日の当たりたる枯野かな          高浜虚子

これらは「取り合わせの変型」です。

2013年2月19日火曜日

少し足りないことの良さ

句集の寄贈の件で、松山にある母校の愛光学園に電話しました。

高校時代は遊び呆けており、図書室の存在すら知りませんでした。
たとえ知っていてもそこに行くことはなかったでしょう。

女性の司書?さんが対応されました。
比較的若いと感じました。声の音色やリズムからです。

「今、「俳句部」あるんですよぉ」 彼女はやや押し気味に話します。

「ところで何期生になられますか?」 おぼろげで正確に答えられません。年齢を伝えそこから逆算してくれと言いました。

「あのー、「俳句部」にもう一冊戴けませんか?」 彼女は「俳句部」の顧問かも知れません。

そうしてあげたいが、何事も至れり尽くせりは良くない、図書室で読むなり、借りるなり、またはコピーすればいい、それでも欲しいのなら購入すればいい、と言いました。

「そうですよねー、ど厚かましいこと言ってすいません」 最後まで呆気にとられたままでした。

外食において、もう少し欲しいと感じつつもその場は止め、次の機会に持ち越すこと態度は美徳と思います。
書籍もそれに似ていると思います。
充足すれば「うまみ」は薄れてしまいます。

2013年2月18日月曜日

補足・直喩

補足

2/15に「許される嘘」の話をし、2/17に「見ていない(体験・実感のない)ものを対象を句作することは禁忌」(許されない嘘)と述べました。

一見矛盾しているように感じられるかも知れません。

例えば吟行(短時間)で池の畔に行くとします。そこがいかにも「蛙」がいそうであれば、例えいなくとも「蛙」や「蛙鳴く」としてもよい。また「蛙」は普段から誰しも見聞きし馴染んでいます。これは「許される嘘」です。

これが特別な場所でない限り「河鹿」を詠むとなると話は別です。殆ど多くの人は「河鹿」を見聞きしていていません。たとえ見聞きして馴染んでいない限り、それを詠むのはおかしい。これが「許されない嘘」です。

実際に「許されない嘘」による句は底が浅いものです。嘘はすぐにバレます。何よりその方の矜持を疑わざるをえません。

直喩

直喩は比喩の中でも、「A=B」という前後の関係があり、具体的には「ごと(し)」「やうな」「にも似て」「…ほど」等を指します。また主に「一物仕立て」に用いられます。

直喩が多い作家の代表例は川端茅舎と鷹羽狩行氏です。

擁護するつもりはありませんが、山口誓子から鷹羽狩行氏へと移行し、「機知」の俳句が台頭しました。

当初は絶賛されますが、やがて「機知」ばかりの俳句は飽きられてしまいます。

ただ俳句のただこうした時期を経なければ、俳句は成熟しません。俳句はまだ過渡期なのです。

また最近の狩行氏の俳句からは従前の方向性を変えようとする意識が窺えます。

例外はあります。

・てぬぐゐの如く大きく花菖蒲           岸本尚毅

「てぬぐゐ」=「花菖蒲」と素直に納得できません。
小川軽舟氏の「現代俳句の海図」における意見と異なるかも知れませんが、私はこれは「レトリックの応用」と考えています。
すなわち「如し」とくれば「A=B」だ、という概念に対し「仕掛けた罠」のように感じるのです。
「A≠B」の関係でも、直喩である「如し」と言われれば「A=B」のような感覚に読者は陥ります。そこがこの句のミソだと思います。
「レトリック」とすればかなり高度なものです。ただ私も含め多くの方にもお勧めできません。

ところで俳諧の発句に直喩は多くありません。それは「取り合わせ」の句で比喩をしているからです。

「俳句」となり直喩が増えた理由として、正岡子規による「写生」、高浜虚子の「客観写生」も関与しています。

すると「一物仕立て」になり易く、付随にて直喩も増えていきます。
「写生」「客観写生」はそうした素地をそもそも孕んでいます。

この度上梓する私の拙句集「原型」200句の中の直喩の数を調べてみます。
四句ありました。

初学者はできるだけ「直喩」を避け句作された方が良いでしょう。その方が実力がつくことが多いものです。

2013年2月17日日曜日

拙句集の校正中です。

初校ゲラの手直しは惨たるものでしたが何とか済みそうです。

改めて「身の丈相応」の句であり句集かと思います。

「しがらみ」がない分だけ気が楽です。
自分でまとめて、自分で払う…シンプルです。

もちろん自分一人の力だけに依るものではありません。
しかし「縁」が切れた以上仕方がありません。
自分を支えてくれたそれらの方々には影ながら感謝する次第です。

発送(謹呈)先のリストを作るのもなかなか大変です。

出来れば全国の都道府県に一冊は寄贈する予定です。
馴染みのある地方(福岡県、大分県、広島県)には、いくつかの市立図書館に寄贈したいと考えています。

私の高校は愛媛県の愛光学園高校です。しかし当時私は遊び呆けていましたので、図書館の存在すら知りません。
大学は医学部でしたので、医学図書館しか利用したことがありません。全学部合同の図書館には行ったこともありません。
ただ上記にも寄贈するつもりです。

その他にも高校・大学から依頼があれば、出来るだけ希望に添うようにしたいと考えています。

今後、結社や協会に所属するのかも分かりませんが、5年という単位を目安に句集を上梓していくつもりです。特に「デコレーション」は欲しません。

デスクワークをしていると一日が早く感じられます。
煙草の量が増えます。胃が弱ります。酒を呑めば余計に胃の腑が悲鳴を上げます。
コンビニの弁当がやたらと増えます。
時にはパチンコ店で盤面を前にぼんやりとしていることもあります。

句作している時も似たようなものですが…。
基本的に私は「机上派」です。
もちろん対象となるものは見ていますし、逆にみていないもの対象を句作することは禁忌として自分を戒めています。

2013年2月16日土曜日

宿酔です。熟睡できていません。頭はぼんやりし、疲労感を覚えます。

二度寝して心身をすっきりさせようと、朝から睡眠薬を服用しました。
残念ながら皆様にお勧めはできません。

アルコールも薬物です。ただ睡眠に関しては入眠導入は比較的容易となりますが、深い睡眠(non-REM睡眠)を阻害し、結果として熟眠障害を引き起こします。

さて句集の校正(初校ゲラ)が始まりました。
たかだか200句ですが、原稿の「差し替え(訂正)」や「配列の変更」が多く、自分の不甲斐なさを実感しています。

定価について版元は2.000円を提示しています。要望が通るかどうかは分かりませんが私は1.800円を希望しています。

本は「定価+税」で販売されます。
今後、消費税が10%になろうとも、「定価1.800円+税180円=1.980円」と読者に2.000円でお釣りがくるようにしたいからです。

もっとも一切の「デコレーション」を排除した自費出版の句集ですから、初めから「読む価値もない」という方には関係のない話かも知れません。

ところで俳句と小説は読者層の厚みが違います。
現在、直木賞作品「等伯(上) 安部隆太郎」(日本経済新聞)を読んでいますが、豪奢にして1.600円の定価です。

少ない俳句人口(別に俳句にはかぎりませんが)の中でも、版元と読者の双方が努力し、流通が円滑に進まなければ、まだまだ小説等には及びません。

俳句というマイナーな文芸がメジャーへと近づくための一つの方法かと思います。
「言うが易く行うは難し」という言葉があります。
現役世代にとっては現在も大事でしょうが、将来に向けて布石を打つことも同様に大事なことかと思います。

2013年2月15日金曜日

行事について

涅槃会・修二会・お水取・仏生会・復活祭などは重要な春の季語です。忌日もそうかも知れません。

私は安易に用いることはありません。自分の身にそぐわないからです。下手な「嘘」は付けません。

「許される嘘」は構わないと思います。「許されない嘘」はそもそも浅いものです。「嘘」の匂いが漂います。
「嘘」をつくにしても、本質の把握が前提となります。

一旅行による句作もいいでしょう。結果よければ全て良しです。しかしそううまくはいきません。

宮坂静生氏の言う「地貌季語」という話は別にして、これらの季語はその地にしばらく住んで初めて身につくものだと思います。

藤田湘子氏は、吟行において、実際に目にしなくともあり得るべきものは「存在する」といっても構わないと言っています。

「客観写生」とは違うかも知れませんが、私もその意見を支持する一人です。

2013年2月14日木曜日

実は昨年末から句作していません。

単発の句による俳句大会はこれで最後とし、後は句集の準備をしつつ、のんびりと小説を読んだりしながら、こびりついた俳句の垢を落としています。

それでも歳時記は毎日のように読みます。また句作する際においても、ツールが多いに越したことはありません。

おそらく今年一年は積極的に句作しないと思います。先の話になりますが、来年から本格的に再スタートする予定にしています。

ところで私は現在どの結社にも協会にも属していません。

句集名は「原型」。200句。序文・跋文・栞文・帯文など一切ありません。

句集は現在校正に入っています。四月には上梓の予定です。

まあ、私らしいとも言えるでしょうか。

主宰らの顔色を窺いながら、とうとう句集も出せぬままお亡くなりなる俳句歴何十年の高齢者がいます。

句集は他者の評価もありますが、自身のこれまでの「まとめ」でもあります。

私もそうでしたが、「まとめ」の過程において自分をある程度客観視出来ます。
自分の欠点、ムラなども見えてきます。
そして句集という「まとめ」には、構成力が必要であることが分かります。

いずれにせよ自分のために俳句をしてきて、自分のために句集という「まとめ」をすることが大事なのです。

主宰らは神でも仏でもありません、ましてや鬼でも悪魔でもありません。
何にせよ「死に水を取る」ことはありません。まず自分が自立することが先決です。

2013年2月13日水曜日

ブレイク・タイム;私生活(飲食)について

私は現在独身ですが、非常にエンゲル係数の高い生活です。


昨日は朝から馴染みの京料理店(出没場所②)の主に電話し、肴を依頼しておきました。

「赤貝」・「鰈(焼物)」・「(木の芽)田楽」など…見た目も匂いも、味は舌の先から胃の腑まで春が滴るようです。

・腸に春滴るや粥の味           夏目漱石


この店の主は、八坂神社(祇園神社)「二軒茶屋」の「中村屋(現在は中村楼)」で修行していました。ですから(木の芽)田楽」は十八番です。

ここに週に二回は通います。

月に一度程度は、近くのホテルで鉄板料理(海鮮とステーキ)を食べます。
もちろんワインも飲みます。その後、メインダイニング・バーでブランデーとコイーバの葉巻を嗜みます。
朝食(和食)にも時々。

ワインはワインブーム以前からよく飲んでいます。


以前は広島のあるフランス料理店もよく行きました。実力のあるオーナーシェフが作る、フレンチらしからぬ無骨な料理と、こじんまりした家庭的な空間を好んでいましたが、改装してから雰囲気が変わり、今は足が遠ざかっています。


長い間、福岡県久留米市に住んでいました。

今でも久留米には時々行きます。必ず立ち寄るのが馴染みの鮨屋です。

昼間からビールを飲みながら肴や鮨をつまむのもいいものです。

残念ながら、馴染みの久留米のイタリア料理店は閉めてしまいました(金銭トラブルではありません)。

一概に福岡県(特に福岡市)の鮨のレベルは高いものです。

九州の鮨や割烹では「小鰭(こはだ)」を使うことはありません。
「このしろ」に関してはまず皆無です。それ以上に美味いネタが多いことも事実です。
「江戸前鮨」の」「こはだ」は、殆ど有明海からの空輸によるものです。

事実は別として、次の句は情感に溢れていて好きな句の一つです。

・こはだから握つてもらふ春の雪      長谷川櫂

自慢するつもりは毛頭ありませんが、回転寿司というものに行ったことがありませんし、今後も行かないでしょう。
ジャンク・フードや居酒屋も好きではありません。
中途半端な料理ならば、コンビニの弁当の方がマシと思います。

私の食事に対する金銭感覚はズレているのかも知れません。否定はしません。

ただこの頃は年齢のせいか胃腸の調子が悪く、肉も酒もあまり受け付けなくなりました。

煙草を止めれば、胃腸の調子も心肺能力も良くなることは経験上知っていますが、自分の「老い」ということも含めて、今はありのまま生きていきたいと思っています。

2013年2月12日火曜日

歳時記を「縦」に読む

句作の際などにその季語を調べたまま済ましてしまうことが少なくありません。
但しそれは歳時記を「横」に読んでいるとも言えます。

それでは「縦」に読むとはどのようなことでしょうか。

植物は、芽を出し、生育し、花を咲かせ、実を結び、枯れます。そしてまたその実から新たなる芽が出ます。いわゆる円環を形成しています。
万象に四季の円環は通じます。

稲作を挙げます。

「春田」、「耕」、「畦塗」、「苗代田」。
「種池浚い」、「種選」、「種井」、「種蒔」。
「水口祭」。

「代掻」による「代田」。「苗取」。
「早乙女」による「田植」。
「植田」、「余り苗」。
「早苗饗(さなえぶり)」。

「田草取」。
「旱」、「水争」、「雨乞」。
「青田」、「青田風」。
「雨休」、「八月大名」。

「稲雀」、「案山子」、「鳥威」、「鳴子」。
「稲刈」。「稲架」、「稲干す」。
「稲扱」、「籾擦」、「夜庭」。
「新藁」、「藁塚」、「刈田」。
「秋収め」、「俵編」。
「豊年」、「凶作」。

「冬耕」、「藁仕事」。

上記を見ても、一年を通して農事だけでもこれほどの季語が縦列しています。

卓上版の歳時記は勧めませんが、大歳時記は季節ごとに分冊されていることが一般的です。
ただ歳時記の横断を読むだけでなく、縦断としても読み、四季の移ろいを感じて欲しいと思います。それが本当の理解に通じると信じています。

もっとも、日頃から歳時記に慣れ親しんでいることが前提です。

2013年2月11日月曜日

俳句を読むこと・詠むこと

・白藤や振りやみしかばうすみどり       芝不器男

原句は「白藤や」のようですが、歳時記によっては「白藤の」と掲載されています。

どちらにせよ一物仕立てですが、個人的には「白藤の」の方が良いように思います。

先に「切れ」を表しますと
(弱)/白藤や(強)/振りやみしかば(弱)/うすみどり/(弱)

句の前後の「切れ」はどの句にも存在します。
句中は、上五「白藤や」でやや強い「切れ」、中七「振りやみしかば」で弱い「切れ」があると思います。

上五は「白藤+助詞」、下五は「体言」です。
上五の「や」か「の」かの問題は、続く中七の構造にあります。

「振りやみしかば」…「降る」(動詞)+止む(動詞)+しく(動詞)+ば(助詞)
上五・下五に比べ多くの動詞(用言)が用いられています。
このように中七は窮屈となっています。

その中七に対し上五に「や」を用いると余計に暑苦しく感じるのです。

この句は中七に動詞が三つ入っています。
一般に一句の中に用言(動詞・助動詞・形容動詞)が三つ以上入ると説明的となり、成功する率は低下します。むしろ用言を極力控えた作句の方が成功しやすいとも言えます。

掲句は例外とも言え、残念ながら勧められません。

ならどうするか…体言や助詞(「切れ字」も含む)を適切に用いつつ、「切れ」により句の奥行きを出すという方法が効果的です。
これは俳句の作句法における要点の一つかも知れません。

次に「しかば」の用法を考えてみます。
「ば」に「しく」(動・四段)の未然形「しか」を用いています。
「ば」は「順接の仮定条件」となります。
「揺りやんだなら」という意味となり、「常に揺れている」ということが前提です。

「ば」に「しく」の已然形「しけ」を用いる方が素直な感じがします。
「ば」は「順接の恒常条件」となります。
「揺り止んだとすると」という意味になります。

しかしながら作者は意図的に「揺れ止まない白藤」のイメージを与えたかったのかも知れません。

この句を暗唱している人は少なくありません。ただ俳句という短詩型では一文字の重要性が必然的に増します。
「習うより慣れろ」は最初は有効かも知れません。しかし名句を吟味・検討することことは、向上する要因の一つになります。

最後に私の初学の頃の話をします。
揺れていない眼前の白藤を長い間観察しました。
しかしどう見ても、白藤が「うすみどり」に見えない。
その後に「うすみどり」とは藤房の蔓と白い花弁の重なり合った色であり、掲句はやや遠景であることを知り愕然とした記憶があります。

2013年2月10日日曜日

私の母の話をします。

九州の山奥に住む母は、六十代半ばから俳句を始めました。
当然ながら?ネットショッピングはおろかパソコンを使えません。

私は電子辞書や歳時記、その他の俳句に必要なものを送りました。
しかし殆ど全ては使われていません。

母はある地方新聞に投稿しています。
電話口から「原句」の「手直し」を頼まれます。
注意してはいますが、「手直し」をそのまま投句しています。ほとほと困ります…。
ある時は「手直し」し過ぎたのか、「特選」まで取ってしまいました。

母は情けない程に努力しません。
それでもその地方新聞に五十回(週)を越え掲載されました。
八割方は私の「手直し」によるものです。
母はそのことを認めません。自分によるものと言い張ります。

今は「原句」も一切聞かないことにしています。
聞くと何か言いたくなりますし、とにかく母に自立して欲しいからです。
さすがに地方新聞にも掲載される頻度が極端に減少し、ようやく「手直し」の影響によるものが大きかったことに気付いています。
しかしそれでも努力しません。向上心がありません。悪い意味で「欲」がありません。

母は初学者です。今後も初学の域を出ないでしょう。

それでも母は「俳句をしていて良かった」と言います。
些細な幸せを感謝することは良い心がけだと思いますが、もう少し努力もしてもらいたいものです。

私は物を捨てることが得意?ですが、母は断捨離が一切出来ません。

親子でもこうも考え方や生き方が違うものです。

2013年2月9日土曜日

立春を過ぎて、いわゆるドカ雪が降ることも少なくありません。
また雨が急に霙になったり、逆に雪が霙になることもあります(「春の霙」)。
これらは移ろいやすい早春の天候の特長とも言えます。

歳時記によっては「牡丹雪」を「淡雪」の中にいれているものもありますが、ここでは一応「春の雪」の中に入れておきます。

「春の雪」は「雪」(冬)に比べ、季節の違いだけでなく「語感」の違いがあります。
「春の雪」の方があたたかく、やわらかく、もろく、明るい。

個人的な意見ですが、「雪」や「春の雪」で取り合わせの句を作る場合、「痛ましい・残酷」等のネガティブな内容は、「雪」よりも「春の雪」に合わせやすいと感じます。
それは「雪」自体に多少ネガティブな要素が含まれているからだと思います。

取り合わせでは異なるものどうしで構成されますから、ネガティブ(内容)+ネガティブ(雪)より、ネガティブ+ポジティブ(春の雪)の方がより効果が増し、さらにはネガティブな内容に対しある種の「救い」を感じるからではないかと思います。

実作上、今は暦の上では春だからという理由だけで「春の雪」を用いるのではなく、文芸上より適切な季語を選択する方が良いかと思います。

「客観写生」という概念を軽視する訳ではありませんが、それもケース・バイ・ケースかと思います。

文芸上においては「より相応しい」方(季語)を選ぶ、また藤田湘子氏の著書にもあるように、吟行においては必ずしもその場で見られなくともあって然るべきものは詠んで構わないという柔軟な姿勢の方が大事かと思われます。

【春の雪】
・春の雪青菜をゆでてゐたる間も         細見綾子
牡丹雪その夜の妻のにほふかな         石田波郷
・白鳥の死やその上に春の雪           山崎ひさを
・馥郁と内蔵はあり春の雪            高野ムツオ
・牡丹雪水に映りて水に入る           堀内 薫

【淡雪】
・淡ゆきや粋筋きえてもとの道          千
・あはゆきのつもるつもりや砂の上        久保田万太郎
・淡雪嘗めて貨車の仔牛の旅つづく        加藤楸邨

2013年2月8日金曜日

寒気がぶり返してきました。

初春の寒さを表現する時候の季語には、「春浅し」「冴返る」「余寒」「春寒」「遅春」などがあります。

しかしこれらの時候の季語の使い分けは容易ではありません。
初春に限ったことではなく、季節の移行する節季の時候の季語は扱いが難しいものです。

よく用いられるのは「冴返る」、その次に「春浅し」「余寒」「春寒(料峭)」かと思います。

「冴返る」は取り合わせの句で「即き過ぎ」になりやすい季語の一つです。注意して用いて下さい。

・某の乱行に似て冴返る            相生垣瓜人
・冴えかへるもののひとつに夜の鼻       加藤楸邨
・白杖の倒れしひびき冴え返る         福田甲子雄
・冴返る袋に透けて買ひしもの         小澤 實

「余寒」でよく目にするのは「余寒なほ」という表現です。
立春を過ぎても晩冬の「寒」が残る、余るというのが季語の本意であり本情です。
立秋後の暑さを「残暑」と呼ぶのに対応しています。
ですから「余寒なほ」という表現は適切とは言えません。

・鎌倉を驚かしたる余寒あり          高浜虚子

2013年2月7日木曜日

旅について

以前はよく一人旅をしました。主に九州全域です。
俳句の上達を目的に、飢えた獣のように、がむしゃらに旅をしました。
まとまった旅をするために退職したこともあります。

もちろん旅先でしか、その景観を実感できないこともあります。
しかし意外にも、旅の地で発見することは、実は身近にあることが多いものです。
つまりは日頃の風景の中で、そのことを見落としているのです。

やがて「旅行者」ではなく、一定の期間その場所で「生活」することが重要に思えてきました。頻繁に特定の場所を訪れても良いでしょう。
上辺の「旅」では、その土地の「風土」を体感することは出来ません。

今は殆ど旅をしません。以前の旅の記憶のストックもありますが、良い意味での「厨ごと俳句」も大事と思うからです。

俳人好みの季語や固有名詞は、俳句に無関係の人には到底理解されません。
読者の「共感」合っての「作品」です。
「共感」とは、一部の俳人だけでなく、一般人にも含めてのことだと思います。

ただ以前より活動性が落ちているのは確かです。上記と矛盾するようですが、体が動くうちは旅に出ようという気持ちがあるのも事実です。
ここ一二年は初心に戻り、旅を中心にするつもりです。

不器用な私は、旅をしながら句作することが出来ません。
句帳を使いません。後でキーワードをメモする程度です。大まかなイメージを脳裏に焼き付けることを優先します。
そうして旅の記憶を熟成し、澱を沈めてから句作します。それが何時になるのかは分かりません。

私が吟行詠に抵抗を感じるのは、そうした理由かも知れません。欲求不満を覚え、激しい自己嫌悪に陥ります。

阪神淡路大震災や東日本大震災等の災害や事故について言及します。
文芸に限れば、ある突発的な事象に対しては、散文が圧倒的に優位です。次に詩や短歌、そうして最後に俳句に辿り着く過程が妥当かと思います。
詩型には向き・不向きがあります。もちろん読者層、「器」の問題も含みます。

俳句は、ある程度の普遍性を要します。突発的な事象に対しては不向きな詩型と言わざるを得ません。

2013年2月6日水曜日

またもや風邪に罹患しています。

折角なので風邪について。

「風邪(冬)」、「春の風邪」、「夏の風邪」…秋の風邪は見当たりません。
確かに季語としては本情の把握が難しそうです。
四季のうち三季に通じるグループと言えます。

【風邪】
・店の灯の明るさに買ふ風邪薬         日野草城
・風邪おして着る制服の釦多し         榎本冬一郎
・とほくから子供が風邪をつれてきぬ      鴇田智哉

【春の風邪】
・マダムX美しく病む春の風邪           高柳重信         
・人形も腹話術師も春の風邪          和田 誠
・弟は漫画が好きで春の風邪          田野岡清子

【夏の風邪】
・夏風邪をひき色町を通りけり         橋 閒石

同様に四季のうち三季に通じるグループの中に「薔薇(夏)」があります。薔薇は品種改良により四季咲きですが、季語としては三季です。

「薔薇」、「秋薔薇」、「冬薔薇」とありますが、春の薔薇はありません。
上記同様、季語としては本情の把握が難しそうです。

時にはこうした「グループ分け」も季語の理解に繋がります。

2013年2月5日火曜日

スランプについて

まずスランプという言葉は、向上心を持ち努力している人にしか適応されません。

私はしばしばスランプに陥ります。そういう時は心身共に疲弊しています。

取りあえず休息が必要です。
無理をしても、エネルギーの消耗に比べ生産性は低いものです。

私はその間、あまり俳句は読みませんし作句はしません。

時には「俳句を止めよう、捨てよう」と思うこともあります。
乱暴な言い方かも知れませんが、しばらく俳句と距離を置いた方がよい時もあります。

ならばそうした時に何をするのか…
小説を読む程度で、あとはぼんやり過ごします。自堕落な生活も送ります。
ただ睡眠は多くとります。できるだけ脳を休息させます。

そうしながらも、自分と俳句と関係、俳句をしている己と社会との関係などについて、ある程度は客観的に考えます。全体を俯瞰することにも繋がります。

いづれ俳句に対する渇望が生じます。その際には、上記のことを念頭に置きながら、俳句に携わることが出来ます。
結果的に、心身共に疲弊しつつも俳句を続けることより、休息を挟む方が効果的なこともあります。
ですから私はスランプを必ずしもネガティブなことだとは思いません。

話は少し逸れますが、時に(特に高齢の男性が)自分のことを「俳句バカ」「俳句キ〇ガイ(俳キチ)」と称す人がいます。
己を鼓舞するためか、自己陶酔なのか分かりません。ただ肝腎の作品が伴わない。
残念ながら、虚しさを吐瀉するという露悪趣味と言われも仕方ありません。

2013年2月4日月曜日

私事です。

昨年、私が応募した俳句大会です。① 村上鬼城顕彰俳句大会、② 雪梁舎俳句大会、③ 鬼貫顕彰俳句大会、④ 西東三鬼俳句大会です。
①は一年間の既発表句・三十句ですが、他は一句に対する評価です。

結果は、
①…一次審査で落選。その前年は二次審査で落選。
②…入選三句(坪内稔典氏選 二句、中原道夫氏選 一句)
③…入選(宇多喜代子氏選)
④…佳作

①は別にしても、②〜④に関しては、不甲斐ないと思いつつも、分相応かと観念する次第です。

いずれにしましても、「単発」の俳句大会への応募は止めることにしました。
連作(三十〜五十)の応募はするかも知れませんが、まだ先の話です。

未熟ではありますが、一つの区切りとして、句集を上梓します。
序文・栞・跋・帯等なし、協会・結社にも所属していない、という全く援護射撃のない、自費出版の句集です。

以下は個人的な考えです。

出来映えは別にして、足跡を残すことは重要なことだと思います。それは自分の生きた証明です。アルバムのない人生は虚しいものです。

趣味とはいえ、自分のための俳句です。評価は二の次です。
他者である主催のための俳句でしょうか。
主宰に背中を押されるまで辛抱強く待ち、いざという時に金銭がない…
現在の(第二次?)若手作家ブームに介入する商業主義も上記のことと無関係ではないと思います。

スター的な作家は別にしても、秀逸な作品群が日の目を見ることなく野に散った例(特に高齢者)は決して少なくありません。

2013年2月3日日曜日

立春です。

「立春」には待望していた春を迎えた喜びがあり、まさに「春立つ」という気分に充ちています。
春に入る・今朝の春という感じではありません。

【立春】

・さゞ波は立春の譜をひろげたり         渡辺水巴
・春立つや濁りさしたる藺田の水         有働木母寺
・立春の米こぼれをり葛西橋           石田波郷
・春来ると足のせはしき車えび          堀口星眠

【春】

・腸に春滴るや粥の味              夏目漱石
・蟇ないて唐招提寺春いづこ           水原秋桜子
・バスを待ち大路の春をうたがはず        石田波郷
・女身仏に春剥落のつづきをり          細見綾子
・春ひとり槍投げて槍に歩み寄る         能村登四郎