2013年2月18日月曜日

補足・直喩

補足

2/15に「許される嘘」の話をし、2/17に「見ていない(体験・実感のない)ものを対象を句作することは禁忌」(許されない嘘)と述べました。

一見矛盾しているように感じられるかも知れません。

例えば吟行(短時間)で池の畔に行くとします。そこがいかにも「蛙」がいそうであれば、例えいなくとも「蛙」や「蛙鳴く」としてもよい。また「蛙」は普段から誰しも見聞きし馴染んでいます。これは「許される嘘」です。

これが特別な場所でない限り「河鹿」を詠むとなると話は別です。殆ど多くの人は「河鹿」を見聞きしていていません。たとえ見聞きして馴染んでいない限り、それを詠むのはおかしい。これが「許されない嘘」です。

実際に「許されない嘘」による句は底が浅いものです。嘘はすぐにバレます。何よりその方の矜持を疑わざるをえません。

直喩

直喩は比喩の中でも、「A=B」という前後の関係があり、具体的には「ごと(し)」「やうな」「にも似て」「…ほど」等を指します。また主に「一物仕立て」に用いられます。

直喩が多い作家の代表例は川端茅舎と鷹羽狩行氏です。

擁護するつもりはありませんが、山口誓子から鷹羽狩行氏へと移行し、「機知」の俳句が台頭しました。

当初は絶賛されますが、やがて「機知」ばかりの俳句は飽きられてしまいます。

ただ俳句のただこうした時期を経なければ、俳句は成熟しません。俳句はまだ過渡期なのです。

また最近の狩行氏の俳句からは従前の方向性を変えようとする意識が窺えます。

例外はあります。

・てぬぐゐの如く大きく花菖蒲           岸本尚毅

「てぬぐゐ」=「花菖蒲」と素直に納得できません。
小川軽舟氏の「現代俳句の海図」における意見と異なるかも知れませんが、私はこれは「レトリックの応用」と考えています。
すなわち「如し」とくれば「A=B」だ、という概念に対し「仕掛けた罠」のように感じるのです。
「A≠B」の関係でも、直喩である「如し」と言われれば「A=B」のような感覚に読者は陥ります。そこがこの句のミソだと思います。
「レトリック」とすればかなり高度なものです。ただ私も含め多くの方にもお勧めできません。

ところで俳諧の発句に直喩は多くありません。それは「取り合わせ」の句で比喩をしているからです。

「俳句」となり直喩が増えた理由として、正岡子規による「写生」、高浜虚子の「客観写生」も関与しています。

すると「一物仕立て」になり易く、付随にて直喩も増えていきます。
「写生」「客観写生」はそうした素地をそもそも孕んでいます。

この度上梓する私の拙句集「原型」200句の中の直喩の数を調べてみます。
四句ありました。

初学者はできるだけ「直喩」を避け句作された方が良いでしょう。その方が実力がつくことが多いものです。

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