2013年2月7日木曜日

旅について

以前はよく一人旅をしました。主に九州全域です。
俳句の上達を目的に、飢えた獣のように、がむしゃらに旅をしました。
まとまった旅をするために退職したこともあります。

もちろん旅先でしか、その景観を実感できないこともあります。
しかし意外にも、旅の地で発見することは、実は身近にあることが多いものです。
つまりは日頃の風景の中で、そのことを見落としているのです。

やがて「旅行者」ではなく、一定の期間その場所で「生活」することが重要に思えてきました。頻繁に特定の場所を訪れても良いでしょう。
上辺の「旅」では、その土地の「風土」を体感することは出来ません。

今は殆ど旅をしません。以前の旅の記憶のストックもありますが、良い意味での「厨ごと俳句」も大事と思うからです。

俳人好みの季語や固有名詞は、俳句に無関係の人には到底理解されません。
読者の「共感」合っての「作品」です。
「共感」とは、一部の俳人だけでなく、一般人にも含めてのことだと思います。

ただ以前より活動性が落ちているのは確かです。上記と矛盾するようですが、体が動くうちは旅に出ようという気持ちがあるのも事実です。
ここ一二年は初心に戻り、旅を中心にするつもりです。

不器用な私は、旅をしながら句作することが出来ません。
句帳を使いません。後でキーワードをメモする程度です。大まかなイメージを脳裏に焼き付けることを優先します。
そうして旅の記憶を熟成し、澱を沈めてから句作します。それが何時になるのかは分かりません。

私が吟行詠に抵抗を感じるのは、そうした理由かも知れません。欲求不満を覚え、激しい自己嫌悪に陥ります。

阪神淡路大震災や東日本大震災等の災害や事故について言及します。
文芸に限れば、ある突発的な事象に対しては、散文が圧倒的に優位です。次に詩や短歌、そうして最後に俳句に辿り着く過程が妥当かと思います。
詩型には向き・不向きがあります。もちろん読者層、「器」の問題も含みます。

俳句は、ある程度の普遍性を要します。突発的な事象に対しては不向きな詩型と言わざるを得ません。

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