2013年4月18日木曜日

【どちらがキツイか?】

どうにか感冒と中耳炎は快癒しましたが、体調はまだ万全とは言えません。

加齢と共に疾病を起こしやすく、またその後の回復も鈍くなることを実感します。

村上春樹氏の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋社)が発売7日目で100万部を突破しました。


同氏による2010年発売の『IQ84』BOOK3(新潮社)が100万部を突破した12日間を5日間上回ることになります。

出版不況の中において凄まじい時間と数字です。

以前、同氏の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)を読みました。J・D・サンリジャー『ライ麦畑でつかまえて』の新しい訳本です。丁寧な訳注が印象的でした。

それでは句集のベストセラーはどの程度でしょうか?
おそらく種田山頭火と思いますが、1万部は超えるにしても10万部はないかと思います。

話は変わります。
かなり以前に、『本は読むより書く方が10倍楽しい井狩春男(新風舎)を読みました。
その後、一時期は駄文を書いていました。

本(散文)は書く方が10倍楽しいどころか、100倍苦しいと、今でも思います。
自分で作った出来損ないの食餌を我慢して食べるより、一流シェフの料理を味わう方が良い、という感覚に近いものがあります。

俳句(韻文)はどうでしょうか。
確かに「詠むこと(句作)」より「読むこと(鑑賞)」の方が気楽ではありますが、それが「楽しい」のかどうかは分かりません。
やや強引ですが、「楽しさ」だけを比較するならば、「詠む」と「読む」の比はせいぜい1:10程度かと思います。
これが逆転するならば、むしろ危険かと思います。

俳句と散文は、単純に比較できない大きな差異があります。
技巧や資料(史料)集めのノウハウ等は別にして、一般人は(著者の書いた)散文の内容の情報量の多くを理解できます。
散文は、一定の基礎教養があれば、書いたことがない方でも楽しめます。

ところが俳句の場合はそうはいきません。
いわゆる「名句」と呼ばれる句の情報量を一般人は解しません。

桑原武夫の『第二芸術論』はやや極端な気もしますが、一般人に理解と共感という芸術の基本理念に乏しい(人口に膾炙しない)訳ですから、そうした意見が必然的に生じる宿命にあるのかも知れません。

俳句においては、「詠む」ことと「読む」ことはパラレルな関係にあります。
「読む」ためには、どうしても「詠む」必要があります。
「詠む」ことなしに「読む」ことは、非常に困難です。

少し話を戻します。
山頭火の句集が売れる理由には、その内容の他に、新かな・口語で自由律という点にもあります。

自由律俳句の作句法に「取り合わせ」なく、「一物仕立て」のみです。
つまりは散文に近くなります。上から下へと読めば、大体のことは分かります。
このことは一般人にも分かり易く、共感し易く、そして手に取り易く、俳句の世界が分かったような気分にもなります。

このように山頭火の句集には「売れる」要素が備わっています。

自由律俳句を否定するつもりは全くありませんが、出口ないしは突破口を見い出すことが困難なように感じます。
時代も違えば時流も違います。120年経た今も山頭火を超える自由律俳句はありません。

ただ今後も「英語俳句」と同じく、「詩 poem」の一詩型として脈々と受け継がれるでしょう。やはりジャンル(広義には)は「俳句」に分類されることと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿