2013年7月14日日曜日

新かな・口語俳句

『月の茗荷』鳥居真里子を一読しました。
…難しい。疲れました。
どこまでを共感領域とするのかさえ今は分かりません。
時には読者を突き放してしているのではないかと疑念を抱くことさえあります。

2008年刊ですので句集評は出揃っているとは思いますが、近日中には幾つかの句を抽出するつもりです。

『カルナヴァル』(金原まさ子)から『月の茗荷』と立て続けに読み、正直、脳は疲弊しています。

それでも、分かるものは「分かる」、分からないものは「分からない」とし、曖昧なものは「(グレイ・ゾーンとして)頭の隅にとどめておく」…

科学論文と同じく、「データー」を「解析」と「考察」を行い、ある程度の「結論」を導き出すことは重要と思います。

この作業がなければ、全ては曖昧模糊のままで、ひいては読解力の向上には繋がらないと思います。読解力(選・評)は、自分の句作と連動します。

こうした行為に、他者の非難や嘲笑などが気になるのも「人間らしさ」と思います。
ただどの分野でも初めから「上級者」はいません。
「向上心」には「勇気」が必要です。そして最後は自分を信じるしかありません。

新かな・口語の俳句で気が付いたことがあります。
中八が目立ち、フレーズの切れが不明なものものもあり、戸惑います。

新かな・口語というのは、それだけで散文に近くなります。一物仕立てであれば、なおさらその傾向が強くなります。

もちろん詩であり、俳句であることは疑う余地もありませんが、どうしても韻文精神からはみ出る箇所も現れます。
逆説的かも知れませんが、韻文の「調べ」からはみ出ていますので、中八もさほど気になりません。

以前、角川『俳句』の対談で、小澤實氏はじゃんけんで負けて螢に生まれたの 池田澄子」以外には、新かな・口語の俳句で興味を引くものはないと発言しています。
私は概ね賛成派です。

新かな・口語の俳句は、確かに垣根が低く見え気軽そうではありますが、従来の旧かな・文語の韻文精神に根差した俳句に比べると、実は難しいものだと思います。

話は少し変わります。
年を歴た鰐の話レオポール・ショヴォ(箸)・ 山本夏彦(訳)を再び読みました。
大人の童話のようでもあり、荒唐無稽な話ながら懐かしさすら感じます。

この話に日本の文学者が何らかの寓意や隠喩などの意味付け(深読み)している姿を、訳者の山本氏は愚と嗤い、元来ナンセンスなものであると位置付けています。

俳句は日本の文芸であり、読者はその短い内容から何かを汲み取ろうと努めます。
散文でもほぼ同じことが言えます。
それは脳の中で「積み木」を積み上げる作業にも似ています。

しかし山本氏は、海外(世界)の文芸には、下手な解釈を要しない「ナンセンス」という文芸というジャンルが存在することを呈示しています。

「木を見て森を見ず」…見識も博識も含め、視野は常に広くありたいものです。

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