2013年7月9日火曜日

フォト俳句

俳句に写真を重ねている「フォト俳句」なるものがあります。
その意図はや効果は分かりませんが、私は「フォト俳句」を好みません。

人間はそれほど器用ではありません。

俳句はまず頭の中で文字情報を視覚情報に転換・処理されることが多いものです。
写真が挿入されると、注意がそちらの情報に向いてしまい、結果的に文字情報から視覚情報の転換・処理の作業を妨げられます。結果的にその句を充分に鑑賞することが出来ません。

写真が動画となれば、ますます顕著となります。動画はさらに情報量が多いものです。
PCでも、写真と動画の情報量の差は歴然です。

「俳画」は「俳句」(文芸)と「画」(美術)を融合させた、独立したジャンル(芸術)です。
「フォト俳句」まではいかなくとも、やはり鑑賞を阻害します。
「画」による情報が第一印象として残り、結果的に俳句の鑑賞を制限します。

句集などの中の挿絵も同じです。実際には俳句と関係がなくとも、読者は第一印象を受け、はじめから作品群に対し「意味付け」をし、臨むことになりがちです。

俳句はやはり「素の状態」で向き合うのが適しています。

句集や総合誌などの「作者名」や「写真」も似たことが言えます。
前作を知っているので、ある程度の「予測」のもとに俳句を読んでしまいます。
「俳句は無名の詩なり」を、現実的に実践するのは非常に困難かと思います。

作句の場合ですが、私はテレビを見ながら・音楽を聴きながら作業しません。
自分の脳の中に存在する視覚や聴覚や記憶など抽斗を探しています。

私は明らかに「机上派」ですが、「机上派」とは全く無縁と言える人がどれほどいるでしょうか。
芭蕉でさえ、一生かけて自句を推敲しています。

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