2013年8月24日土曜日

【角川「俳句」9月号より・付録】

ここしばらくは活力・生産性に欠け、だらだらとした生活を送っていました。

激しい眼精疲労、頭重感と頭痛、易疲労感、全身倦怠感(心身共に)、睡眠障害…などに悩まされていました。
47年間の人生で、はじめての夏バテと思います。
季語で言えば、「夏痩」の傍題の「夏負け」に相当するのでしょうか。

そんなメリハリのないリビング・デッドさながらの
私に、スパイスというかメガ・シャキ(商品名)が届きました。

角川「俳句」9月号・「新刊サロン」に関悦史氏による拙句書評が紹介が掲載されました。

掲載と評者のことは事前に知っていました。

有り難いことではありますが、まずこれはミスマッチではないかと思いました。
関氏もまたよく受けたものだ、と不思議でした。

実は私と関氏とでは、交わる(重なる)部分がないのではないかと思っていました。

また関氏の句に対しても当初はやや懐疑的でした。

掲載自体でも光栄なのですが、ページの半分だろうと思っていたところ、1ページ丸ごとの掲載です。これは拙句集によるものではなく、関氏の力に依るものです。


関氏からの「暑中見舞」に、「辛口になるかも知れない」とありました。

これは関氏の沽券にも関わりますし、かつ私が「ベタ褒め」は嫌悪するだろうと見越しての心遣いです。

さて、本題の関氏の書評「隘路から見る定型の力」ですが…む、難しい…著者の私でさえ、3,4回読んで何となく分かったような感じです。


私が凡才ゆえか、よく分からない箇所もあります。

例えば「…(略)ただしそこで出てくるのは伝統的な画題に依った(略)…飯田龍太〈なにはともあれ山に雨山は春〉を想起させる(略)…元句の生彩と飛躍を殺いでいる」。
一見すると否定的な見解のように感じますが、何度か読むとむしろ「良い意味」かと思うようになります。

「毀誉褒貶」という言葉がありますが、関氏の書評はそれとも違う感じがしました。


書評の最後の方に「(略)にもかかわらず見るべき句はできてしまう事態を通して定型の恩寵にたしかに触れ…」とあります。

大井恒行氏(豈)も拙句集を「俳句の恩寵の享受」と書かれています(「俳壇」-(赤旗))。


う〜ん…著者である私自身が上記のことを意識したことがなかったこともあり、こそばゆく感じます。


何れにしても他人の客観的意見に素直に耳を傾けるということは大事なことだと思います。そこには「発見」があります。


Twitterでの私の関氏への発言です。
『「さすがに頭いいなぁ〜(非凡の才)」と感心しつつも、自分の凡才を改めて愛している(自己愛)次第です。

Twitterでの関氏の発言(返信)を紹介し、終りとします。


「適当に褒める」というのをやりたくなかったので(却って失礼でしょうし)ああいうことになってしまいましたが、もうちょっと美点を引き出す道もあったのではないかと、やや忸怩たるものがあります。


「新刊サロン」に異例の大抜擢していてくれた『俳句』編集部の方々に御礼申し上げます。関さんはさぞや疲れたことでしょう、ご苦労様でした。そして感謝致します。

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