【季語あれこれ①】
故・藤田湘子氏の入門書の中で「みなが普段、歳時記を読んでいない事実に驚く」とありました。私も以前は歳時記に馴染んでいませんでした。
構えて歳時記を読む必要はありません。気軽に雑誌でも読む感覚で読めば良いかと思います。ただ常に傍らに置き、毎日目を通すことが大事です。
歳時記を眺めるだけでも様々な発見があります。たとえ句作に用いなくとも、興味は尽きません。驚嘆するもの、死語に近いもの、中には笑ってしまうものもあります。
句作の場合、やはり重要季語から始めた方が良いと思います。
句会などで馴染みのない季語を用いる方がいますが、その季語自体が疎通性にやや乏しくなりがちです。これが吟行句(即吟)となると、作者自身がその季語の本意・本情を良く理解していないことが多く、いよいよ疎通性に乏しくなります。
故・山本健吉氏の「季語ピラミッド説」には懐疑的です。
それでも重要季語を優先的に使い、充分慣れてから下部の季語に移行する方のが良いかと思います。
季語は、縦の系で大から小へと芋づる式になっていたり、また横の系でもそれぞれが関連し合うことが少なくありません。そうすると点であった季語が面になります。
重要季語を用いた例句は多く、全てを言い尽くしているかのように感じます。
ただそのことを、重要季語を避ける言い訳にして欲しくはありません。
「真理」とは多くの芸術や学問によって、ようやく輪郭が浮かび上がるものであると思います。それぞれが「真理」をかすめているのです。「真理」の実体そのものを射抜くことは出来ません。
もちろん名句と呼ばれる俳句でも「真理」のど真ん中を貫くことは出来ません。
我々にできることは「真理」をかすめることです。
違う側面からのアプローチなどにより、違った形で「真理」をかすめることは可能です。
もちろん苦悩は付きまといます。ただそのこと自体が重要なのです。
このことをできれば初学のうちに習慣づけて欲しいと思います。
俳句の「骨法」の一つと確信しています。
次回からは歳時記の季語を挙げながら話をしていきたいと思います。
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