【自我】
頻回に句会に参加することが、上達への王道と思っている方が少なくありません。
また結社の先輩などがそれを煽ることも多々あります。
しかしそこには「陥穽」が潜む危険性を知る必要があります。
主観的には、一生懸命に句作し句会に参加している能動的な生産活動、しかし客観的には盲目的な行為に過ぎず、受動的かつ非生産的活動…このギャップは大きいものです。
俳句は句会に限ったことではありません。歳時記で季語の本意・本情を理解し例句を覚えますし、俳句総合誌や句集を読むことの方が重要なこともあります。特に日頃から歳時記を読んでいない人が少なくありません。
これらはインドアであるデスクワークですから、アウトドアある句会に参加することは何となく実感があるのかも知れません。
また俳句との距離を柔軟に保つことが重要です。時々距離を取りながら俳句界を俯瞰することは重要です。
「木を見て森を見ず」…ある程度全体像が見えていなければ、自ずから樹海に迷い込むようなものです。
こうした柔軟な距離の取り方は、句作においても「対象」を多面的に捉えることに繋がることが多いものです。
どの分野でもコツ(要領)を掴むのが上手い人がいます。やはり上記と似たような作業をしているものです。
ところで主宰やプロ俳人は「神」ではありませんし、我々は「信徒」ではありません。
そのことは「俳句」が、「宗教」に変容することに他なりません。
主宰やプロ俳人の仕事は、第三次産業でありサービス業に該当し、我々は「消費者」と言えるかも知れません。
主宰やプロ俳人は、その結社に所属している人々は勿論のこと、俳句総合誌などの媒介により還元すべき責務があるとも言えます。
結局、上記のことは「自我」の確立が出来ているかということに帰結しそうです。
自我の程度はその人の作品に如実に表れます。
「自我」の問題は、俳句以前の問題なのかも知れません。
自我のなきものは去るべし青嵐 鷹羽修行
〈暗唱句〉
植物〈蔦-三秋〉
・落葉松を駈けのぼる火の蔦一縷 福永耕二 (☆)
時候〈行く秋-晩秋〉
・蛤のふたみに別れ行く秋ぞ 芭 蕉 (☆)
天文〈秋の雨-三秋〉
・秋雨や夕餉の箸の手くらがり 永井荷風 (☆)
・蕎麦よりも湯葉の香のまづ秋の雨 久保田万太郎
・秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 中村汀女
以上で重要季語57、例句157です。
「時候」は一旦、終了します。
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