2013年3月4日月曜日


松林図 六曲一双 紙本墨画 (国宝)(右隻)
【写生と象徴性】

直木賞作品「等伯」を読みました。

長谷川等伯は、狩野永徳海北友松雲谷等顔らと並び、桃山時代を代表する画人であり、長谷川派の始祖です。

その「等伯」の中で気になる箇所がありました。下巻 p.258より抜粋します。

(左隻)(共にWikipediaより転写)
「真にそれぞれの様を映し取ろうとするほど、花も葉も図案化してゆくのである。目に見えるものを精密に写し取るよりも、花や葉の持つ本性を象徴的に描いた方がより本物らしく見える。それは人が物を認識する時に、無意識に記号として識別しているからである。
むろん等伯にはそんな知識はないが、経験によってそのことを理解していた。」

「写生」とは、元来中国において発祥した画論上の概念であり、日本に輸入され、明治以後はスケッチ。デッサンの訳語にあてられ一般化した言葉です。
浅井忠。中村不折、下村為山等の洋画家はそれに感化されました。
 
これらの画家と交友のあった正岡子規は「日本画の如き陥らしめざるの利あり」(『松藻玉液』より)として、殊に俳句について、自分の目指す「革新俳句」の手段と掲げ、「写生論」を成しました。


 
高浜虚子は「写生」を発展させ、「客観写生」と「花鳥諷詠」を唱えます。

・明易や花鳥諷詠波阿弥陀          高浜虚子

しかし冒頭の文章と比較してみると、何か釈然としないところがあるのも事実です。

水原秋桜子は「現実の真実と文芸上の真実が異なるのは、文芸として自明の理である」と唱え、虚子のもとから離れました。

このことも何やら関係がありそうです。

私は便宜上、「許される嘘・許されない嘘」という言葉を用いています。
現代においては「許される嘘」を一切排除した俳句は存在しないでしょう。

・葛飾や桃の籬も水の上           水原秋桜子

実際には秋桜子の眼前にこの景は存在しません。

水原秋桜子による自解です。「私のつくる葛飾の句で、現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである。」


ですからこの句は心象風景でもあり、原風景とも言えます。
但し秋桜子はこれらの景を幼い頃より見て慣れ親しんでいます。ですから「許される嘘」と言えます。

俳句は文芸・芸術の一部です。

こうした革新的な運動の礎の恩恵により、現代に生きる我々は句作が出来るのです。

しかしながらイマジネーション(象徴性)は時に煮詰ることがあります。
その時には原点である「写生」の姿勢に戻る姿勢が必要です。
「(客観)写生」=「現実の把握」がしっかりしていないと、その応用であるイマジネーションは得られません。

要は「本質の断片」を得ることが重要です。

「(客観)写生」・「現実の真実」、
「象徴性」「許される嘘」、どちらにしても最終的には俳句を文芸・芸術の域にまで昇華させることが肝要ではないでしょうか。

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