今年一年(あと7ヶ月弱)は作句せず、と決めていましたが、次第に「疼き」が内部から突き上げてくる感覚覚えます。
それでも一度脳を空にしたいという欲望もあります。暫くは自堕落な生活をして、俳句に携わっていない市井の人々と触れ合いたい…
そもそも俳句は上品なものではありません。
何らかの「俗」は必要で、「己の裸体や臓腑」まで他人に見せる覚悟を要します。
そうした「生臭い」俳句を嫌う人は、結局は「われ」を失い、表面的な美しさを詠むばかりとなりがちです。それなら和歌を詠めば良い訳ですが…
川柳と俳句の一番の違いは、「川柳は時事を詠む」、「俳句は季節を詠む」ことです。
二番目に違うことは「諧謔」の捉え方です。
「川柳の諧謔は分かり易いが、普遍性に乏しい」、「俳句の諧謔はそれを通して人間の存在の虚しさを詠み、ある程度の普遍性を有す」ということになるかと思います。
俳句の川柳の線引きは難しいのですが、市井の人々から「俳句と川柳はどう違うの?」と尋ねられた時、上記のことは答えて欲しいと思います。
そうした質問を受けたことがないという人の場合は、市井の場を避け、都合の良い場所に安住していることが多々あります。
日本の人口は約一億万人です。俳句人口はせいぜい一億人です。
一万に一人…これが客観的な現実です。
その狭い世界の中の、さらに隅に隠れ持論を展開しても、一般社会は受け容れません。
良く言えばジクソーパズルのワンピース、悪く言えば厨の隅のチャバネゴキブリです。
私は9.999人の市井の意見の半分は汲みたいと思っています。
そうした意味も込め、拙句集は200句に収め、一般人でもかろうじて読めるようにと考え編集しました。
それでも予想以上に一般人の意見は厳しいものがあります。
基本的に俳句は商業ベースに乗りません。
超一流の作品は別として、作者の歩み寄る姿勢は必要かと思います。
「口語・新かな」は飛びつきやすい。自由律の場合であれば一物仕立てしか叙法はありませんから尚更です。
しかし俳句の「句の前後の切れ」を認識していれば、やはり「文語・旧かな」が断然有利です。
一例を挙げます。
・くろがねの秋の風鈴なりにけり 飯田蛇笏
「切れ」を「/」で表します。
/くろがねの秋の風鈴なりにけり/
私たちは、主に「口語・新かな」の日常を送っています。
「文語・旧かな」は、日常から非日常の世界に入り、また日常に戻る役割を果たします。
この日常から非日常へ、非日常から日常へ、という「間」が句の軽重に関わります。
〈暗唱句〉
生活・行事〈花火-晩夏〉
・半生のわがこと了(お)へぬ遠花火 三橋鷹女
・ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火 (☆)
・山国や空にただよふ花火殻 金子兜太
・残像に打ち重なれる花火かな 古谷野静
・空使ひ切つて花火の重ね咲き 島本桂城
動物〈空蟬-晩夏〉
・空蟬のなほ苦しみを負ふかたち 鷹羽狩行 (☆)
・空蟬のなかあはあはと風が吹く 鍵和田秞子
・生ま身にはなかりし艶を蟬の殻 木内怜子
植物〈花菖蒲-仲夏〉
・花菖蒲夕べの川のにごりけり 桂 信子 (☆)
・手触るるは破戒に似たり白菖蒲 庵 達雄
・菖蒲園人ゆつくりと混んでをり 中尾二庵
・てぬぐひの如く大きく花菖蒲 岸本尚毅
これで重要季語92、例句252です。
これで重要季語92、例句252です。
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